●中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく
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【成立】1949年(昭和24)10月1日,北京で成立した中華人民共和国は,1840年アヘン戦争に始まる列強の中国侵略,また1911年の辛亥革命による中国最後の王朝・清朝転覆後も根強く残っていた封建支配と,度重なる内戦の歴史に終止符を打つものだった。人民解放軍は翌50年春までに大陸内の国民党軍を排除,台湾・香港を残して国土は基本的に統一された。中華人民共和国は,1921年の結党以来この革命を指導してきた中国共産党の強力な指導下にあったが,建国前夜に党の呼びかけで開催された政治協商会議は「労働者・農民・小ブルジョワジー・民族ブルジョワジー・その他の愛国的民主分子からなる人民民主統一戦線」に基づく政権を発足させた。中央人民政府主席・毛沢東は「本政府が中華人民共和国の全国人民を代表する唯一の合法的政府である」との布告を発表した。【復興期】中華人民共和国(以下「中国」と略)の成立は,第二次世界大戦終了から4年後,東西両陣営の対立が激化しようとする時であった。建国当初,中国を承認したのはソ連など社会主義国と一部アジア諸国のみであり,中国はなお国民党を支持する米国の圧力に対抗し,また建国後の経済復興のためにソ連に接近した。1949年12月モスクワを訪問した毛沢東はソ連側と厳しい交渉の末,翌1950年2月「中ソ友好同盟相互援助条約」,「中国長春鉄道などに関する協定」,「長期経済借款協定」を結んだ。いわゆる「中ソ条約」には「日本または日本の同盟国(米国をさす)」を仮想敵国として相互に軍事援助を供与する条項があった。1950年6月,朝鮮戦争が勃発,鴨緑江に迫る米軍を主力とする国連軍を前に同年10月,中国人民義勇軍も参戦した。2年にわたる激戦の後,1953年7月休戦協定が調印されたが,この戦いを通じて中国は「向ソ一辺倒」政策をとり,1950年代後半まで中ソ蜜月期が続く。
中国共産党は,1949年の中華人民共和国建国以前から「解放区」と呼ばれた支配地区で地主を粛清し,その土地を分配する土地改革に着手していたが,建国後の1950年6月「土地改革法」を採択,同年冬から全国的に土地改革運動を展開した。運動は「貧農,雇農に依拠し,中農と団結し,富農を中立化して地主を倒す」ことを目的とし,1952年末までに少数民族地区を除いて土地を持たぬか,あるいはわずかしかもたなかった3.2億人の農民に7.4億畝の耕地が分配された。改革後,地主にも一定の土地が与えられたが,元地主は厳しい政治的・社会的差別下に置かれ,文革後の1984年になってようやく元地主という呼称を外された。一方この運動は中国の二千年にわたる封建制の基盤である封建的土地所有を廃絶するものであり,民主革命段階の重要な任務とされた。しかし実際の運動の中で地主に対する過酷な闘争が行われ,また階級区分においても富農が地主とされるなどの混乱もあったという。
国家権力を掌握した中国共産党は,朝鮮戦争の緊張が高まる中で1950年暮から反革命分子の粛清に着手した。1951年2月「反革命懲治条例」が制定され,大量の反革命分子・スパイ・土匪・迷信団体指導者などが逮捕された。一方新生の国家機関内部では早くも職員の腐敗・特権化が始まり,1951年末には「汚職・浪費・官僚主義(三害)」処罰の運動が展開され,さらに幹部腐敗の原因となるのは当時なお統一戦線の一部として存続と活動を認められていた資本家の不正にあるとして,1952年1月から資本家の「贈賄・脱税・国家資材窃取・不良品生産・国家情報窃取(五毒)」の摘発が行われた。これがいわゆる「三反五反運動」であり,1952年秋までに大量の資本家が処罰された。この運動は階級闘争として展開されて資本家は厳しい追及を受け,以後経済活動における党の指導権が確立した。だがこの運動においても,資本家に対して本来禁止されていた不法手段による自供の強要や過激な抑圧が加えられた。
【社会主義の道】1954年9月,中国は国会に当たる全国人民代表大会の第1期第1回大会を開催し,憲法を採択した。同憲法はその前文で中国は社会主義建設を目指す社会主義国家となることを宣言した。また憲法に先立って提起された「過渡期の総路線」においても工商業の全人民所有化,つまり社会主義改造がうたわれた。だがその改造にはかなりの時間,10年から15年をかけることが予定されていた。
しかし毛沢東を中心とする急進派の指導の下で,社会主義化のテンポは早められた。その先頭を切ったのが農業の社会主義集団化であった。土地改革によって基本的に農民は土地を所有する自作農となったが,1953年12月,土地・農具の所有権を残しながらも農作業を集団化する初級合作社化が始まった。合作化の急速な進展を前に,毛沢東は「生産力増大に見合う集団化の推進」というそれまでの社会主義農業理論を逆転させ,集団化を先行させることで社会主義化を実現できるとし,集団化の強化を呼び掛け,初級合作社は私的所有権を放棄し,労働に応じてのみ収穫を分配する高級合作社へと急速に改造されていった。1956年末までには全国の9割の農家が高級合作社に参加,農業における社会主義改造は終了したとされた。だが政治運動として展開された農業集団化は成功し,さらに1958年から人民公社化へと進んでいくが,土地の所有権(あるいは私的耕作権)を廃止した高級合作社化は多くの問題を残した。
一方,国民党官僚資本を国有化した後に残されていた民族資本系の資本主義工商業に対しては,1954年から公私合営化が開始された。1956年,初期の運動の高まりを通じて資本家は自己の資本・経営を手放し,資本に対して国家から一定の利息が支払われることになった。また零細な手工業者に対しても集団化が進められ,多くの企業が集団化されて1956年中には個人企業はほとんどなくなった。しかしこの過程においても過激な手段や誤った階級分析が発生,商店の激減・産品の品質悪化などの弊害や,多くの零細企業家が誤って資本家として処理された。
さまざまの問題を残したものの,中国の社会主義化は1956年までにほぼ完了し,同年9月に開かれた中国共産党第8回全国代表大会(8全大会)は,社会主義化の基本的完成と階級闘争の終了が宣言された。この大会においては,社会主義改造終了後の達成すべき主要目標は「進んだ社会主義体制に見合うように生産力を拡大すること」とされた。またこの大会では党規約が改正され,党の民主的指導・個人崇拝反対などが盛り込まれた。
一方,1953年3月スターリンが死去,1956年のスターリン批判を経て社会主義圏ではいわゆる雪解けが始まり,中国においても1956年6月から党に対しても自由に批判を加えてよいとする百花斉放・百家争鳴運動が展開された。しかしこの運動は恐らく予想以上に激しい党批判を招くことになり,毛沢東は1957年5月,反右派闘争の展開を呼び掛けた。反右派闘争は急速に過激・拡大化し善意から党を批判した多くの人々,とくに知識人が右派分子として断罪され,また自由な発言を認めた党の公約が否定されるというその後長期にわたる政治的不安の原因となった。
政治的緊張が高まる中で1958年,ソ連と異なる独自のかつ迅速な社会主義建設を目指す大躍進運動が始まった。農村の政治・経済・社会,そして家庭生活まで集団化した人民公社が組織され,大衆にも鋼鉄がつくれると土法製鋼の炉が立てられ,大豊作の幻想の下で公共食堂では食い放題の浪費・乱費が発生した。1959年,これを批判した彭徳懐国防相は毛沢東の怒りを買い失脚した。
この急進路線は外交にも表れ,対米融和策を取るフルシチョフを批判する中国は台湾砲撃,中印国境紛争を巡ってソ連と対立,1960年ソ連は対中経済援助を打ち切りいわゆる中ソ対立が次第に激化し始めた。
【中ソ対決】1959年からの天候不順も相まって中国経済は危機に陥り,1961までの大災害期には一千万人を超える餓死者が出て経済建設はほとんど中止された。この挫折の結果,毛沢東は1962年春その過ちを認めたが,その失敗の原因は,社会主義革命の後にも社会主義の推進に反対する階級が党内にもいるとの考えを次第に強め始め,同年10月の党中央委員会(10中全会)で,社会主義段階の階級闘争の必要を訴える継続革命論を党路線とすることを認めさせた。
毛沢東この判断は,中国の国内情勢だけではなく,スターリン以後のソ連における「資本主義が復活した」という判断とも一致するものであり,農業集団化当時にさかのぼって急進論路線に反対するものは「資本主義の道を歩むもの」だとの確信を強めていった。その疑惑はやがて劉少奇国家主席らに向けられるが,その対立が激化し始めたのは農業問題であった。
1961年,大災害下の安徽省で,集団耕作をやめ耕地を分配して供出達成後の収穫は自由に処分を許す請負制度(三自一包制)が実施され,大きな成功を収めた。毛沢東は当初これを是認したが,やがてこれこそが農村における「資本主義の道である」と批判,農村における階級闘争を目指す社会主義教育運動の展開を命じた。この運動を巡って腐敗幹部の粛清を目的とする劉少奇らと次第に対立が激化し始めた。
一方,1959年に国防相に就任した林彪は,伝統的な革命軍から国防軍化し始めていた人民解放軍を再び毛沢東思想に基づく「人民の軍隊」へと再編制,全国的に解放軍に学ぶ運動を展開しさらに1965年には軍の階級制も廃止された。同年ヴェトナム戦争激化の中で,林彪と羅瑞卿総参謀長が対米戦略を巡って対立,羅は失脚した。
1960年代前半の中国では,劉少奇らの調整政策によって経済は回復し大慶油田の開発も成功,1964年には第1回の核実験も行われた。たが当時中国が国際的関心を集めたのは,社会主義の正統性に関するソ連との激烈な論争であった。
スターリン批判に始まる中ソ両党の対立は次第に深まり,1960年のブカレスト会議,1963年の中ソ両党会談の決裂を経て両党の断絶は決定的なものとなった。1963年9月,中国共産党は対ソ公開論争を開始した。戦争と平和の問題・修正主義問題・民族解放闘争の評価など,広範にわたってソ連共産党を批判した9本の論文(いわゆる「九評」)はイデオロギー問題である以上に,かつては“一枚岩”と呼ばれた社会主義圏の分裂を決定的なものとした。
1965年11月,毛沢東は姚文元に命じて明代の官僚,海瑞を称えた呉含・北京市副市長の文芸作品を批判する論文を発表させた。後に明らかにされたように皇帝に反対して失脚した呉含は,大躍進で毛沢東を批判して失脚した羅瑞卿を称えるものだと毛沢東は判断した。呉含批判をはじめ文芸界での批判は来るべき文革の前哨線となるものであった。
【文革の十年】1966年から1976年の毛沢東の死去と,江青(毛沢東未亡人)ら四人組の逮捕をもって終了した「プロレタリア文化大革命(以下文革と略)」は,中国国内においては「社会主義の新たな発展段階」としてスタートを切り,終了後の1981年には「10年にわたる災害」として全面的に否定された。その過程の詳細は不明な点が多く,また歴史上の最終的評価はなお出されていないが,現代中国史の中で最大の事件であったことは間違いない。「継続革命論」に基づき,党内の資本主義勢力の存在に警戒を強めてきた毛沢東は1965年5月,党中央政治局会議を開催,彭真北京市長・羅瑞卿総参謀長らを解任,陳伯達を組長とする文革心組を設置した。同年8月,第8期中央委員会第11回総会(11中全会)が開催され,「プロレタリア文化大革命に関する決定」が採択された。同決定は「党内の資本主義の道を歩む実権派の打倒」をこの運動の目標に掲げた。同時に従来の政治運動とはまったく異なり,党外の青少年を中心とする紅衛兵が組織され,闘争の先頭に立った。紅衛兵は当初,北京の歴史的地名・道路名などを革命的なものに改めるなど,いわゆる「四旧打破」(古い思想・文化・風俗・習慣の打破)運動を展開した。
毛沢東への熱狂的崇拝と忠誠,また文革前体制下での不満分子も次第に実権派に対する造反(謀反)に加わり,1967年1月には上海の労働者が同市の党・行政権力を奪い(いわゆる奪権闘争),新しい権力機関である革命委員会を設置した。奪権闘争は全国的に波及し,1968年9月までに全国で革命委員会が成立,従来の党・行政組織は崩壊した。一方,造反派間の武力闘争も激化,その鎮圧に解放軍が出動して革命委員会には軍人が直接参加した。
この混乱の中で多数の幹部・知識人・一般大衆が激しい批判や吊し上げを受け,その多くが死亡したり負傷したりした。「実権派ナンバーワン」とされた劉少奇国家主席は1968年10月の党中央委員会で党籍・職務を剥奪され,河南省に追放中に悲惨な死を遂げた。一方,解放軍を率い毛沢東と文革を全面的に支持した林彪は,1969年4月の党大会(9全大会)で公式に毛沢東の後継者に任命された。
1970年8月,林彪を国家主席に任命しようとした陳伯達らの計画が失敗,毛沢東の信任を失ったことを恐れた林彪は,1971年9月ソ連への亡命途中モンゴルで墜落死した。1973年3月党中央はトウ※注1※小平を復活させ,経済・軍の整頓を命じたが,トウ※注1※小平は毛沢東・四人組と対立,1976年4月に再失脚した。また周恩来首相も四人組の攻撃を受け始めたが同年1月死去した。文革への幻滅・周恩来への追悼・トウ※注1※再失脚への同情など,多くの不満を抱えた民衆は1976年4月5日の清明節に天安門広場で暴動をおこし(天安門事件),激しい弾圧を受けた。しかし同年9月9日毛沢東が死去,その1カ月後の10月6日華国鋒を党主席とする新指導部が成立,開始以来10年目にして文革はようやく終了した。
【転換期の中国】四人組を逮捕した華国鋒党主席を中心とする新指導部は反四人組として団結したものの,いわゆる毛沢東以後の中国を何処に導いていくか必ずしも一致していたわけではない。1977年3月,トウ※注1※小平が復活,いわば「毛なき毛体制」を維持しようとする華国鋒らとの対立が表面化し始めた。広範な民衆の支持を集めたトウ※注1※小平ら「改革派」は,「毛沢東の決めたことはすべて変えてはならない」とする華国鋒らの「すべて派」を次第に追い詰め,1978年12月の党中央委員会(78年3中全会)で党のイニシャチブを握り,近代化(中国語で「現代化」)実現のため本格的改革に着手した。
「改革派」の最初の任務は,晩年の毛沢東思想と文革に代表される「極左路線」を清算することであった。1950年代にさかのぼる数々の政治闘争の犠牲者の名誉が回復され,劉少奇も1980年2月に死後の名誉を回復された。一方同年末から四人組ら文革指導者を裁く特別法廷が開設され,翌1981年1月,江青,張春橋の二人に死刑(執行延期2年で執行されず),王洪文らその他八人全員に有罪の判決が下った。さらに文革以後,中国共産党にとって最大かつ最も困難な問題となっていた毛沢東に対する評価が進められ,党は同1981年6月「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議(いわゆる「歴史決議」)を採択,文革と「継続革命論を全面否定すると同時に,毛沢東について「功績7,過ち3」の肯定的評価を加えた。
毛沢東体制の終了は,折からの近代化実現のための一種の解放・自由化ムードをもたらし,新中国建国以来初めて公然たる民主化運動が展開された。北京市西単の「民主の壁」での壁新聞の張り出しや,民間雑誌の発行を中心とする民主化要求の声は全国の青年層・知識層の間に大きな共感を惹き起こしたが,その要求や批判が社会主義体制や党指導体制に向けられるや魏京生らの逮捕など厳しい弾圧が加えられ,いわゆる「北京の春」は終息した。またこの解放ムードの中で長らく低調を続けてきた文芸界も活気を見せ始め,文革の悲劇を暴露する「傷痕文学」や,人間性の回復を訴えるヒューマニズム文学が一斉に発表され始めた。しかしこれに対する保守派の非難・攻撃も激しく,白樺批判などの事件も発生した。
一方,文革期には反帝国主義・反覇権主義を唱える過激な「人民革命外交」によって,中国は国際的に孤立してきた。しかし1969年3月中ソ国境のウスリー川の中洲,珍宝島で軍事衝突が発生するなど中ソ関係が緊張するなかで,中国は重大な外交戦略の転換を決定した。1971年7月,キッシンジャー米国務長官が秘密裏に中国を訪問,翌1972年のニクソン大統領の訪中が合意された(米中国交正常化は1979年1月)。また1971年に中国は懸案の国連代表権を回復,1972年9月には日本との国交も正常化された。こうした中国の「西側接近外交」に不信を抱くソヴィエトは対中姿勢を硬化させ,1979年2月には中越国境紛争が発生した。
【近代化目指して】1978年末の3中全会で主導権を握ったトウ※注1※小平ら「改革派」は,文革後遺症を清算すると同時に経済を中心とする大幅かつ空前の体制改革に着手した。その最大の柱となったのが農業における生産責任制の導入であった。
農民の各家族に一定の耕地や副業を請け負わせ,ノルマを達成すれば余剰生産物・利潤の利用を自由にしたこの制度は,長年過激な集団化と平均主義,幹部の誤った指導に苦しんできた農民大衆の大きな歓迎を受け,農業生産は奇跡的発展を見せ始めた。だが,1983年末ごろまでに最終的に各戸請負制が安定するまでにはさまざまの曲折があった。可能な限り従来の集団所有制を維持しようとする指導部を農民が突き上げる形で責任制を実現してきたことが注目される。また商工業分野においては企業自主権の拡大が図られてきた。かつて生産量・原料配分・価格・販売・給与・人事のすべてにおいて国家機関の直接の管理下にあった企業は,次第に一定の自主権を与えられ,独立採算の下での超過生産分の自由な販売・一定の人事権・利潤の留保などが認められた。また労働者に対しても悪平等化していた給与体系が改められ,「労働に応じての分配」の原則が再確認され奨励金制度も復活した。だが行政機関が深く絡んでいた企業の体制改革は難航し,農業における生産責任制の成功と安定を待って1984年秋から都市の企業に対する本格的改革が着手されている。
一方,文革期を頂点に中国は経済的にも厳しい門戸閉鎖を続けてきたが,急速かつ合理的近代化実現のためにその対外姿勢を大きく転換させ,それまでタブー視されてきた外国技術・資本の積極的導入を開始した。その一環として1979年ごろから広東・福建省などに経済特区が設けられ,地区内では免税・全額外国投資を認めるなど,外国企業・資本に対する大幅な優遇措置がとられた。
また1950年代以来,定年制度もないまま肥大化していた行政・党組織に対する改革も進められ,1982年2月の全国人民代表大会では省級機関の削減・副首相の減員などが行われた。また党については老幹部の引退と知識・技術水準の高い若手幹部の抜擢が促進され,文革以来党内にわだかまっている文革支持者・極左思想をもつ者を排除するため,1983年から整党運動が展開された。
これらの改革は従来の社会主義の概念や制度を抜本的に改めるものだけに,思想的にもまた制度や運営上でもさまざまの混乱が発生し,また指導部内にも改革に対する見解の相違があることが窺われる。しかし華国鋒を党主席・首相ポストから降格させ,代わって趙紫陽を首相(1980年9月)に,胡耀邦総書記を党のトップに据えて(1982年9月),自らは党中央顧問委員会主任に就任したトウ※注1※小平を中心とする指導部は近代化実現に大きな努力を払っている。
一方,中国は1984年9月,2年にわたる対英交渉の末,1997年の香港の主権返還について合意した。同合意によれば,中国は1997年以降にも50年間は香港の資本主義体制を維持することを約束,「一つの国家内に(社会主義と資本主義という)二つの体制をもつ」という極めてユニークな「一国両制」をとることになった。また現指導部は,1949年の新中国建国以後も国民党が統治する台湾に対しても平和交渉による統一を呼び掛けているが,国民党側はこれに応えていない。
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