●中華思想 ちゅうかしそう
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漢民族が自己の政治・文化を誇って,これこそが華であり,自民族が世界(天下)の中心に位置しており,周囲の異民族は未開であり野蛮であると軽視する考え方。古く西周時代には,漢民族は黄河の中流域に農耕文化を築いたので,当時の周囲の異民族の文化との差を自覚し,これを誇って華であると考え周囲の異民族を夷狄であるとしたことから,この考え方を華夷思想ともいう。古くより漢民族は周囲の異民族を東夷・南蛮・西戎・北狄と呼んだ。この字を見ればわかるように,ケモノヘン※注1※や虫のつく字を使っていて,人間扱いをしていないという考え方を表している。しかし民族の違いによって差別をしたのではなく,政治・文化の差が問題であった。漢代になって,国教の地位を与えられた儒教の政治理論の原型は,有徳の人が君主となって天下を治めるという礼教が実現することが政治の理想であるとする考え方であったので,これを実現している民族は華であるが,実現されていない民族は夷狄であると考える。しかし未開で野蛮な夷狄も,この礼教を実現していることを慕い同化すれば,その夷狄も華になったと考える。たとえば,春秋・戦国時代に覇を唱えた楚の国は,初めは夷狄とされていたが政治・文化が向上し礼教が実現していると判断されると,華の仲間とされるようになった。中華思想は儒教の政治理論の一つで,秦の始皇帝が天下統一して以来,皇帝を頂点とする政治体制を続けてきた清朝までのおよそ2000年の間,官僚とその予備軍である知識人層によって根強く維持されてきた。中国の歴代王朝は,この中華思想によって外交関係を処理してきたので,古くは中国と周囲の異民族との関係,近世に入ってからは諸外国との関係は,中国が世界(天下)の中心でありこれに服属するのだという形式を要求した。これを朝貢という。中国の歴代王朝と外交関係をもつことを希望する周囲の諸国は,定期・不定期に使節を中国に派遣して中国を宗主国とし,これに服属していることを表明する必要があった。そして朝貢の際には,その国の特産物を皇帝に献上することになっており,中国皇帝はこの返礼として中国の文物を下賜することになっていた。朝貢使節には多くの随行員が必要で,そのなかには貿易をする商人もいた。事実上は中国側の商人との交易が行われていたが,外見上は朝貢の形式が絶対に必要とされた。朝貢使節は中国皇帝の前で,三跪九叩の礼,すなわち三度ひざまずき九回の拝をするという作法を実行しなければならなかった。列強が中国に目を向けるまでは朝貢の儀礼は形式通りに行われていたが,列強の使節が中国に派遣されるようになると,対等な外交関係を要求する列強の使節との間にトラブルがおきた。1793年(乾隆58),イギリス政府の任命したマカートニーが最初の派遣使節として乾隆帝に拝謁したとき,中国側はマカートニーに三跪九叩の礼を行うことを要求したが彼はこれを拒絶した。結局マカートニーの要求は何一つ認められなかったが,諸外国を朝貢国と考えてきた中国側としては驚くべき事件であった。そして列強が軍事力を背景に中国を侵略するようになると,中華思想を持ち続けることが困難という反省がもたれるようになったが,2,000年以上も持ち続けてきた考え方が一朝一夕に変えられるものではなく,逆に列強が中国の領土や利権を分割することを容易に認めてしまうという背景になってしまった。中華思想は,礼教が無限に拡大することによって中華の国も無限に拡大するのだという考え方をもっているので,清朝までの中国には,国境や領土という明確な観念が欠けていたためである。1911年の辛亥革命により新しい政治体制が始まり,中華思想は否定されなければならなくなった。しかし漢民族の誇りとしての「中華」という表現は,中華民国,そして中華人民共和国という正式の国名に生かされている。
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