●中央アジア ちゅうおうアジア
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中央アジアには広狭二つの意味がある。広義の中央アジアとはいわゆる内陸アジアで,新疆・チベット・カシミール・アフガニスタン・ソ連領トルキスタン・イラン北部・モンゴリアを包括する。狭義の中央アジアとは東・西トルキスタン,すなわち新疆ウイグル自治区とソ連領トルキスタン(カザフ・キルギス・タジク・トルクメン・ウズベクの五共和国)をさす。以下,便宜上東・西トルキスタンに分けて述べる。【風土】東トルキスタンは中央部を東西に走る天山山脈によって,北のジュンガル盆地と南のタリム盆地に分けられる。ジュンガル盆地は北方をアルタイ山脈で区切られ,標高200〜500mである。その南方の天山山脈は東西2,500km,南北最大幅300km,複雑な山脈の集合体でいくつかの峡谷があり,古来遊牧民の本拠となり北麓の遊牧民と南麓の農耕民との交渉路ともなっている。その南方のタリム盆地は北は天山山脈,南は崑崙山脈,西と北西はアライ山脈とパミール高原に囲まれ,大部分はタクラマカン砂漠である。タリム盆地には周辺の山々から多くの河川が流入し,ヤルカンド川・ホータン川・アクス川は合流してタリム川となり,東流して東経89度付近に達する。かつてその水はコンチェ川と合流してロプ湖(ロプノール)に達したが,現在は途中で消失している。しかしこの盆地に流入する河川によって,その縁辺部には多数のオアシスが形成されている。一方,西トルキスタンは北はカザフ草原,南はヒンドゥークシュ山脈とコペト山脈,西はカスピ海,東はパミール高原とアライ山脈に囲まれた地域で,中央北部にアラル海がありここにシル川・アム川の両大河が流れ込んでいる。シル川以北はカザフ草原,シル川とアム川間はキジル−クム砂漠,アム川以南はカラ−フム砂漠になっている。シル川とアム川,その中間のザラクシャン川,その南のムルガブ川流域に多くのオアシスが点在する。このように東西トルキスタンは地形上からは大きく違っているが,気候は等しく典型的な大陸性気候である。夏は暑く(メルヴで最高45.2℃,トルファンで最高48.9℃),冬は寒く(タシケントで最低−28.2℃,ウルムチ1月平均−19.5℃)湿度と降雨量は極めて少ない。年間降雨量は西トルキスタン,ジュンガリアで70〜200mm,カシュガルで50mm,トルファン16.6mmにすぎない。
【政治・経済・住民】東トルキスタンは中国の新疆ウイグル自治区に属し,主都はウルムチである。総人口は約1,110万人といわれ,ここに13の少数民族が住んでいる。[1]ウイグル548万人,[2]漢族400万人,[3]ハザク80万人,[4]回族50万人,[5]タジク2.2万人,[6]シボ族2.5万人,[7]モンゴル族10万人,[8]キルギス10万人,[9]ウズベク1.6万人,[10]ダホール0.3万人,[11]タタール0.35万人,[12]満族0.36万人,[13]オロス0.07万人と言われる。自治区のなかに少数民族の自治州が5,自治県が6ある。このうち人口増加が近年とくに著しいのは漢族で1955年(民国44)にはわずか62万人だったが,一挙に400万人となった。ウルムチ,コルラを中心に多くの漢族が行政・軍事・経済に活躍している。最も多いのはウイグル族で,大部分はタリム盆地に住む。彼らはすべてイスラーム教徒で,共通の歴史と文化遺産を受け継ぎ,主としてオアシス農耕に従事し,小麦・とうもろこし・米・高梁・綿花・油菜・ゴマ・甜菜をつくり,とくにトルファンの綿花・ブドウ・ハミ瓜は名高い。新疆の工業は極めて遅れていたが近年急速に発展し,鉄鋼・石炭・石油・金属・機械・電力・化学・紡績・皮革・製糖などの近代工業が建設された。とくに石油開発は克拉瑪依(カラマイ)・庫克牙(ククヤ)に大油田が開発され,独山子(トゥシャンツ)・庫車(クチャ)でも発掘されている。カザフ・キルギス・モンゴル族などは天山北麓,ジュンガリア・パミール山中で牧畜を行っている。西トルキスタンはソ連邦の一部を形成し,トルコ系のカザフ・ウズベク・トルクメン・キルギス・カラ−カルパク,およびイラン系のタジクがそれぞれ共和国を形成している。すなわちカザフ共和国(1936年成立,首都アルマ−アタ,人口850万人)・ウズベク共和国(1925年成立,首都タシケント,人口730万人)・キルギス共和国(1936年成立,首都フルンゼ,人口190万人)・タジク共和国(1929年成立,首都ドシャンベ,人口180万人)・トルクメン共和国(1925年成立,首都アシュハバード,人口140万人,以上人口は1956年推定)である。ただしカラ−カルパクはカザフ共和国に属している。西トルキスタンの住民も草原と山地では牧畜を行い,オアシスでは農主牧副の生活を送っている。ザラフシャン川流域のサマルカンド・ボハラ,ムルガブ川下流のメルヴ,アム川下流のホラズム,シル川上流のフェルガーナ・タシケントなどはいずれも豊かな農耕地である。1962年アム川の水はカラフム運河によってトルクメン共和国に運ばれ,おびただしい農耕地が形成された。西トルキスタンでも小麦・大麦・米・甜菜・果樹がつくられるが,とくにウズベクの綿花はソ連全体の需要を満たしている。農作業の機械化も著しく進み,各共和国の首都を中心に近代工業もめざましい進歩を遂げている。牧畜は羊を主体とし,ほかに馬・ラクダ・山羊・牛などを飼う。牧畜の形態はいわゆる遊牧だが冬営地と夏営地は決まっており,移動は数十kmから300kmぐらいである。
【言語・文学】現在東トルキスタンではウイグル語,西トルキスタンではウズベクが広く用いられ,その他キルギス・カザフも共にトルコ系の言語を用いている。しかしかつてこの地方には広くイラン系・アーリア系民族が住み,それぞれ地域ごとに異なる言語が用いられていた。そのなかでもソグド地方のソグド語,ホータンのホータン語(サカ語),クチャのクチャ語,カラシャールからトルファンのトハラ語,楼蘭のクロライナ語などは,比較的資料も多く残存し言語学的性質も明らかにされている。このうちソグド語・ホータン語などはイラン語の一部,クチャ語・トハラ語はアーリア系言語で,クロライナ語はインド系の言語である。しかしこれらの言語で書かれたものは,宗教の経典や実用的な古文書が多く,いわゆる文学にあたるものは見られない。かえってウズベク語・ウイグル語にペルシア・アラビア文学の影響を受けた作品がみられ,キルギス族の英雄叙事詩『マナス』は20万行に達する大叙事詩である。
【宗教】中央アジアはゾロアスター教の発祥地で,教祖ゾロアスターはシースタン生まれともバクトリア生まれとも言われる。その後仏教や景教が入り次いでイスラームが入った。このように世界の大宗教が相次いで行われ,この地方の原始宗教はほとんど消滅した。しかし古代アーリア人がもった神秘思想は,いろいろな形で残っている。インドのヒンドゥー教にもその要素は色濃く影響している。中央アジアのイスラームは,イランを除いて正統派のスンナ派だが神秘主義的傾向が強い。カザフ・キルギスにはイスラーム教,モンゴルにはラマ教が普及したが遊牧民の間にはシャーマニズムが残存している。
【歴史】中央アジアで最初に活躍したのは,アーリア人種である。前2000年ごろ,イラン・インドに入ったアーリア人は,おそらく中央アジアから南下した人々で同時に東トルキスタンにも波及した。前6世紀アケメネス朝の成立は,文献に現れる最初の西アジアの統一王朝であった。前4世紀後半のアレクサンドロスの東征は,アジアをヨーロッパに結びつけギリシア文化は中央アジアに及んだ。前3世紀中ごろ,バクトリアとパルチアが独立し,ヘレニズム文化は中央アジア・西アジアにますます浸透した。前2世紀後半,張騫が西方に赴き,初めてバクトリアを大夏,パルチアを安息の名で東方に伝えた。前3世紀に秦が中国を統一したころ,モンゴリアには匈奴が強盛となった。匈奴はタリム盆地の月氏を追い,月氏は西トルキスタンに入り,トハラ人の大夏を服属させた。前2世紀後半,漢の武帝は匈奴を圧倒し,河西四郡を置いて盛大な西域貿易を行った。前60年(神爵2)には西域都護が置かれ,その伝説は三通三絶ながら後漢時代に及んだ。中国の勢力が直接西域に及んだ漢・唐の時代はタリム盆地は西域都護によって統治され,西方との交易も盛んであった。一方,中央アジアには紀元1〜3世紀はフシャン朝,5世紀にはエフタル,6〜7世紀には突厥が強く干渉し,イランにはササン朝(226〜651)が栄え,複雑な歴史をたどった。とくに5〜8世紀にはソグド地方にソグド人が栄え,各地に植民地をつくって東西交易に活躍した。8世紀中ごろから漢北の覇権はウイグル族に掌握されていたが,840年ウイグルは新興のキルギスに倒された。彼らは唐の北方,タリム盆地北方に逃れたが,やがてタリム盆地に侵入しタリム盆地とソグド地方のトルコ化・イスラーム化が促進された。その結果,今までこの地方を占拠していたアーリア人はトルコ人に同化され,東西トルキスタンとなった。13世紀にはモンゴル族の活躍によって,東西トルキスタンはモンゴル帝国の四ハン国を形成した。15世紀には西トルキスタンはチムールによって統合されたが,まもなくこの地方は南下したウズベクに統合され,やがてボハラ・ヒヴァ・コーカンドの三ハン国が成立し,19世紀にロシアに征服されるまでこの地方を支配した。東トルキスタンはチャガタイ=ハン国の分裂後,オイラート部やジュンガル部の支配下にあったが,18世紀中ごろ,清の乾隆帝の遠征により,ジュンガル部(1757)・カシュガリア(1759)は相次いで征服され,準部と国部となりのちに新疆省(1882,光緒8)となった。19世紀の中央アジアは,その政治的・軍事的重要性から,清・ロシア・イギリス間に激烈な勢力争いがおこった。ロシアは三ハン国を征服し,イギリスはアフガン戦争によってロシアの南下を阻止した。一方清はイリ事件などによって蚕食を受けつつも,新疆省の設置により東トルキスタンを守った。この地方の重要性の再認識と古文書の出土により,19,20世紀には各国の探検家が派遣され,幾多の貴重な資料を発見した。
〔参考文献〕護雅夫『中央アジア史』1981,旺支社
羽田亨『西域文化史』1948,座右宝
羽田明『中央アジア史』1957,岩崎書店
長澤和俊『シルクロード文化史』1983,白水社