●中越戦争 ちゅうえつせんそう
アジア 中華人民共和国 AD1979 中華人民共和国
1979 南北を統一して成立したばかりのヴェトナム社会主義共和国が隣国のカンボジア(民主カンプチア)に侵攻して親ヴェトナム政権を樹立したことに対して,カンボジアの旧政権を支持していた中華人民共和国が,ヴェトナムに〈懲罰を加える〉という名目で,1979年2月,ヴェトナム北部に侵攻した事件。北ヴェトナム(ヴェトナム民主共和国)は,建国以来ソ連と共に中国の影響を受けてきたし,中ソ両国の援助を必要としてきたので,中国の土地改革を模倣して失敗したり(1955〜1956),中ソ対立の激化があったが,中越関係は友好的であった。ヴェトナム戦争の間もこの関係は続いたが,中国の文化大革命中,紅衛兵がソ連からの援助物資の輸送を妨害したり,中国的なゲリラ戦による持久戦か,正規軍による短期決戦・早期和平かをめぐる路線対立がおこり,中越関係は次第に冷却,ヴェトナムはソ連への傾斜を深めていく。特に1972年2月のニクソン訪中による米中接近はこの傾向に拍車をかけた。それでもヴェトナム戦争中は対立が表面化することはなかったが,1975年4月のサイゴン(現ホーチミン市)陥落,1976年7月のヴェトナム社会主義共和国成立以後,中越関係は急速に悪化,1977年,中国はヴェトナムへの借款供与を中止した。統一後の経済困難を克服するために南部の社会主義的改造に着手したヴェトナムは,1978年,私営商工業の全面禁止と通貨交換を実施,南部経済流通網を握る華僑に打撃を与えた。この年,ヴェトナム南部からの難民(ボート=ピープル)が激増し国際問題となったが,南部の華僑ばかりでなく北部の華僑も迫害を受けたとして続々と帰国,7月,中国はヴェトナムヘの経済技術援助を全面的に打ち切り,ここに中越両国は事実上の断交状態に入った。
他方,ヴェトナムはカンボジアとの間に国境紛争を抱えていた。両国間には元来民族的対立があり,国境線も不明な部分が多かったが,ヴェトナム戦争中のアメリカと南ヴェトナム(ヴェトナム共和国)のグエン=バン=チュー政権とのカンボジア侵攻(1970)による難民の移動がもたらした国境問題と,戦後の革命路線の相違とが両国対立の直接の原因となっている。カンボジアにおいては,1970年の政変でシアヌークを追放したロン=ノルが親米的な政権を樹立,国名をクメール共和国とし,反ヴェトナム政策を推進していたが,1975年4月17日,解放勢力クメール=ルージュ(赤クメール)によってプノンペンが陥落,ポル=ポト政権が誕生,国名を民主カンプチアとした(1976)。ポル=ポトは国民に人気のあるシアヌークを国家元首に迎えたが,まもなく解任し独裁的で苛酷な国家改造を推進した。ラオスと共にカンボジアをも自己の影響下に置こうとするヴェトナムに対し,ポル=ポト政権はヴェトナムからの自立政策をとった。1977年7月,ヴェトナム・カンボジア国境紛争が表面化,9月,訪中したポル=ポトに中国は支持を約束,12月,カンボジアはヴェトナムに断交を通告した。
中国と激しく対立し,西側諸国からの借款供与や投資も得られないヴェトナムは,ソ連への傾斜を強めた。1978年6月,コメコン(経済相互援助会議)加盟,11月,ソ越友好協力条約調印によってソ連の支持を得たヴェトナムは,年末には本格的にカンボジアに侵攻,1979年1月,プノンペンを陥落させた。ヴェトナムはカンプチア救国民族統一戦線がポル=ポト政権を打倒したと説明したが,新しく樹立されたヘン=サムリン政権は親ヴェトナム色が濃く,カンボジア人民共和国の政治はヴェトナム人顧問によって動かされている。こうしたヴェトナムの動きに対して,中国は〈制裁〉と〈懲罰〉を加えるという名目で,2月17日に国境を越えてランソン等の北部五省に侵攻,3月16日に撤退したがその後も中越両軍の衝突は続いている。ASEAN(東南アジア諸国連合)諸国もヴェトナムのカンボジア侵攻に反発,1980年にはタイ・カンボジア国境でヴェトナム軍とタイ軍が交戦するなどインドシナ問題は今後に多くの課題を残している。
〔参考文献〕今川瑛一・菊池昌典・木村哲三郎著『新インドシナ戦争』1980年,亜紀書房
滝川勉他著『東南アジア現代史』1982年,有斐閣
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