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●チャンパ

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 インドシナ半島東岸部に,2世紀ごろから1471年まで存続した王国。インド文化の枠組みをもったチャム人が建国した。チャム語はオーストロネシア語族に属す。中国史料によれば,チャム人は137年に日南象林県へ侵入し,192年ごろ土侯の区連によって建国された。国号は645年ごろまで林邑,唐代は環王,以後明代まで占城と呼称した。サンスクリット語で国名をチャンパといった。クァンナム=ダナン省のトゥーラン湾南から出土したサンスクリット語碑文は4世紀後半のもので,インド文化の浸透・定着を裏付け,バドラヴァルマン王がシヴァ神バドレシュヴァラにミソン寺院を捧げたという内容の碑文である。この王の都は,ミソン寺院の近くにあるチャキャウで,この地方にはインドと同じアマラヴァティという地名があり,グプタ様式の仏像の出土,王の碑と同じ書体のサンスクリット語二碑文とチャム語碑文が発見され,この地方にインド系の王国が存在し,チャム語を話す人々が住んでいたことが判明した。しかし,その初期の歴史は,中国史料により王名・朝貢年代・侵攻状況・風土風物などが知られ,碑文史料と合致するのは5世紀以降である。国土はチョンソン山脈を背後にした沿岸の狭い平野部に展開し,南北に細長く,自然地形的な条件からいくつもの地域に分立していた。その歴史はヴェトナム北部の肥沃な平野部を略取すべく北進を間断なく続けていた。248年にホカソン地方(ビンチティエン省北部)ヘ侵攻し,バドン湾近くに区粟城を建設してチャンパの北境とした。その後も侵攻を続けたが,446年交州刺史檀和之によってこの区粟を奪われ,本国のフエ地方まで襲撃された。6世紀半ばから北進を再開したが敗北を重ねた。中心地のチャキュウ・ミソン・ドンドゥオンなどの基壇跡や寺院跡から,グプタ様式の影響を受けた破風や台石がみつかっている。

 政治の中心地は,8世紀半ば以後,南のパンドランガ(ファンラン地方)やカウターラ(ニャチャン地方)ヘ移るが,875年にもとのフエ地方にインドラプラ新王朝がおこり,一時期だけ旧都城に近いドンドゥオンに巨大な大乗仏教寺院が建設された。美術様式はクメール=ジャワの影響を受けている。沿岸に残るチャムの塔は有名である。ヴェトナムは966年に中国から独立し,チャンパは1000年にビンディン地方のヴィジャヤヘ遷都した。ヴェトナム初の統一王朝の李朝は,国内体制が固まるとチャンパヘの圧力を強め,1021年に攻撃を始めた。1044年と1068年に都ヴィジャヤが陥落し,北部三州(フエ地方)をヴェトナムへ割譲した。西隣国クメール朝も1145年にチャンパに侵略したが,逆に1177年チャムパ軍がクメール朝の都アンコールを蹂躙した。しかしチャンパは1203年から1220年までクメール朝に併合されてしまう。ヴェトナムでは,1226年にチャン(陳)朝ができ,チャンパも国力を回復し14世紀に一時的に北進攻撃を開始した。しかしヴェトナムでは1428年に黎朝が開かれてチャンパとの対決姿勢を強め,3代目の黎聖宗が1445年と1471年に都城ヴィジャヤを徹底的に破壊し,チャンパを滅亡へと追い込んでいった。チャム人の一部はメコン川河畔のカンボジアやマレー半島へ逃れた。パンドランガなど沿岸各地には,早くからイスラーム商人の来航があり,中国への海上ルートの給水・中継地であった。チャム人のイスラーム教徒がいて交易に従事していた。現在もファンラン地方などにチャム人の集落がある。チャンパの歴史展開の特徴をあげるなら,[1]政治的にはヴェトナム・カンボジア・中国を相手に,約1,300年の長きにわたり戦闘を交えてきた。[2]自然環境的には,チョンソン山脈と峠・隘路による障壁で防衛が容易であった。[3]経済的には山麓の狭い沿岸平野部だけで肥沃な後背地に欠け,国力の充実に限界があった。[4]民族的には海岸・河川の川畔に拠点をもって森林の物産や海産物などを集貨し,運搬者の役割を果たしたことなどである。