●茶の文化 ちゃのぶんか
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喫茶の習慣は,日本独自の抹茶および高級な煎茶である玉露に対し,健康飲料ともいうべき中国系,また繊細で多様な紅茶の世界がある。あるいは乳飲料に近いものや葛根湯のような薬用飲料も,“茶”の概念に包括される。これらはすべて茶の文化と呼べないことはないが,狭義には,一つの文化大系を備えている日本の抹茶(茶の湯)こそが,茶の文化と呼ぶにふさわしい充実した内容をたたえている。日本近世の煎茶文化は,すでに日本で確立していた抹茶文化の亜流にすぎない。中国宋代の抹茶法が,禅宗と不可分の関係をもって渡来したことが,日本で抹茶文化を成立させる第一の前提条件となった。すなわち抹茶(茶種)が臨済禅を招来した栄西(建仁寺開山)によってもたらされ,茶樹も栽培されたとする理解である。さらに栄西によって『喫茶養生記』も著されるから,いよいよもって禅と茶の一体化が強く印象づけられた。それだけなら,禅院における喫茶儀礼(四頭の式のような)として宗教行事のなかに封じこめることも可能なわけだが,日本の禅宗寺院が,さらに広範な中国美術工芸(唐物)の伝播と享受の場所となったことが,喫茶の単なる儀礼としての枠組みを超えさせることになった。とくに武家貴族化する足利幕府の成立と臨済宗の京都五山(のちに相国寺が加わる)は,天竜寺船に見られるような(東福寺も)中国貿易の府庁のごとき観を呈するから,京都五山は中国文化享受の花園と化した。このことは足利三代将軍義満において顕著な高揚をみせる。来日僧無学祖元・後嵯峨帝の皇子である高峯顕日・そして夢窓疎石と,この三代の法脈に対する足利一門の尊崇の念は,禅と唐物文化への惑溺の状況としてとらえることができる。これに対し,入宋して径山の虚堂智愚に従った南浦紹明の法嗣で,大徳寺を開いた宗峯妙超の法系から一休宗純が出て,五山に対する林下(りんか)と貶称されながらも酷しい宗風を樹立して,民間における禅文化の興隆に寄与することとなった。この庶民への解放のなかで,茶の文化(茶の湯)は,一休と村田珠光との交流によって精神的な支柱を得ることができた。その志向を簡潔にいえば,珠光の〈此道の一大事ハ,和漢之さかいをまきらかす事〉にあるといえる。すなわち唐物荘厳のなかに権威づけられた喫茶を和様化(和漢の境を紛らかす)し一般化することであった。しかもそれは,一休における禅の和様化と軌を一にしていることが重要である。このことは,八代将軍義政の東山山荘に象徴される浄禅兼帯の思想とも連動するもので,さらに珠光と義政をつなぐものとして『君台観左右帳記』の著者,能阿弥の存在も重要である。珠光は,能阿弥から具体的に台子による喫茶儀礼を学んだのであるが,そこに茶の湯点前の祖型をみることができる。唐物の茶入れ・茶碗を用い,台子による点前手続きを簡略化し,器物も和物で代替しうるとするためには,禅に参ずることによって成し遂げた精神世界の確立が背景として必要だったのである。一碗の茶を喫することが,単なる渇きをいやすための飲料ではなく,そこに茶を点てる側(主人)と飲む側(客)との心の交流をはかることによって,味覚を賞することよりももてなす側の心入れを優先させる茶の思想が成立したのである。この思想を中核として,美術工芸全般・建築・料理など広く生活を律する厳しい美意識を涵養することになった。その思想を“侘び”または“寂び”という用語で表現している。中国茶・紅茶・また応用茶(人参茶など)は単なる飲料にすぎない。しかし抹茶(日本の煎茶を含む)は,その飲用のためにさまざまな条件を満足させなければならなかった。それが茶の文化を生んだのである。とくに禅思想を中心とする中国文化(茶の湯の場合,朝鮮・東南アジア・スペイン・ポルトガル・オランダなどの諸国との交流もあるが)との対応のなかで,これを克服脱却して独自の文化大系を成立させたことは,世界的な視野のなかでも重要項目となるであろう。〔参考文献〕村井康彦『茶の文化史』岩波書店(岩波新書)