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●チャーティスト運動 チャーティストうんどう

ヨーロッパ 英国 AD 

 1830年代から1850年代にかけてイギリスで展開された労働者階級による政治運動。

【運動の成立】1832年の選挙法改正実現のうえで大きな役割を果たした運動は,産業ブルジョワジーと労働者階級の同盟を基礎に戦われたが,この改正で選挙権資格を付与されたのは産業ブルジョワジーだけであって,労働者階級は,結果としては彼らに裏切られたことになった。したがって彼らはいきおい政治運動に失望し,反議会的・革命的となって熱狂的に労働組合運動に専念。1834年にオーウェン主義に基づく全国労働組合大連合を結成することになった。しかしこれは厳しい官憲の弾圧に遭いすぐさま崩壊,しかも1834年8月には新救貧法が制定され,貸金を補助する救貧制度は一掃されて労働者階級に窮乏が強いられたばかりか,生活困窮者は過酷な救貧院に収容されて非人間的な扱いを受けることになった。こうした状況のもとで労働者階級が再度,選挙権を得て議会を改革することの必要性を認識するようになるのは当然のことであって,そこで彼らは,1838年5月ロンドン労働者協会によって発表された,男子普通選挙権財産資格制限撤廃・1年制議会・平等代表・議員有給制・秘密投票の6項目の要求から成る人民憲章をかかげた運動,すなわちチャーティスト運動を展開することになった。

【運動の展開】この運動は,1837年の不況の到来による失業者の増大を背景にイングランド北部で工場労働者を結集し,過激な戦術を主張するオーコンナーを指導者とする勢力(実力派),南部でロンドン労働者協会を中心に手工的熟練労働者を糾合し,平和的・合法的手段を主張するラヴェットなどを指導者とする勢力(道義派),そして中部でアトウッドに指導されたバーミンガム政治同盟を中心とする勢力に支えられて,全国的・大衆的運動に発展した。各地に設立された労働者協会や政治同盟を組織的な基盤にして,全国各地で憲章を採択し,それへの支持署名を集める大規模な集会がもたれ,その過程で選出された代議員によって1839年2月ロンドンでチャーティスト大会が開催され,同年6月,憲章は国民請願として議会に提出されたのである。しかし7月,この請願は下院で253対46で否決され,それを契機にチャーティスト大会では,「最後の手段」をめぐって実力派と道義派の抗争が激化し,9月,大会は解散,しかもそれに追い討ちをかけるかのように,11月3日のニュー=ポート蜂起後多くの指導者が逮捕されこの運動は停滞期に入った。この停滞を打破するため,その後いくつかの試みがなされた。ラヴェット全国人民政治社会改良協会を組織,他方バーミンガムでは,バーミンガム政治同盟に代わってスタージの指導のもとに完全選挙権同盟が結成されたが,前者はあまり支持が得られず,後者による運動も大衆的なものになることはできなかった。そこで運動の前面に躍り出てきたのは,1840年7月マンチェスターにおける代表者会議で設立された全国憲章協会であった。これはオーコンナーの指導により,1842年には約350の支部,4万の会員を擁し,同年5月,約331万の署名をもって再度憲章を国民請願として議会に提出することになった。そしてこれは再度,287対49で否決されたが,この年は不況のどん底で労働者は8月ごろから北部・中部の工業地帯で「栓ぬき暴動」といわれるストライキをおこし,人民憲章支持の意向を強く示した。このように今回の運動は一面では階級的に純化されたが,これもまた大量の逮捕者を出して停滞することになった。その後1848年に全国憲章協会は,フランス二月革命の影響を受けて三たび国民請願を議会に提出したが,この請願もまた失敗に終わり,ここにチャーティスト運動は終息することになった。しかしこの運動が,世界史上はじめての政治的な階級闘争として展開されたということには注目されなければならない。

〔参考文献〕古賀秀男『チャーティスト運動の研究』1975,ミネルヴァ書房