●チャーチル
ヨーロッパ 英国 AD1874 ハノーヴァー・ウィンザー朝
1874〜1965 イギリスの政治家。二つの世界大戦時代の最も有力な政治家としての名声を築いたが,軍人・ジャーナリスト・行政家・雄弁家・著述家・画家などの多面的才能と戦闘的で頑固な性格の持主であり,きわめて風格のある個性的人格として親しまれている。18世紀初頭のイスパニア王位継承戦争の名将として国民的英雄とみなされた初代マールボロ公爵(1650〜1722)が父方の家系にあり,父ランドルフは第7代マールボロ公爵の三男で保守党の政治家,ソールズベリー内閣の蔵相であったが,首相に反抗して辞職したことがよく知られている。また母ジェニー=ジェロームはニューヨーク=タイムズ紙の大株主のアメリカ人富豪の娘。古典語の不得手と冒険好きの性格から大学に学ばず,ハロー校からサンドハースト陸軍士官学校に進み,1895年に卒業。その年キューバの叛乱を鎮圧するためにスペイン軍に参加,1897年には騎兵将校としてインド軍に勤務,1898年にはスーダンを南下するキッチナー軍に加わって奮戦,それぞれ従軍記事を発表して文筆で名声を得た。1899年の補欠選挙に立候補して落選した。ボーア戦争に特派員となって従軍,捕虜となったが脱走して名をあげ,1900年に保守党員として下院入りを果たし政治家に転身した。しかし植民地獲得よりも貧民の救済を訴え,保護関税法の上程に異論を唱えて保守党の異端者になり,1906年の選挙では自由党に移り,キャメル=バナマン(1836〜1908)内閣の植民次官に,次いで1908年のアスキス(1852〜1928)内閣の内相,さらに1911年海相に転じ,最も強硬な主戦論を唱えて第一次世界大戦を迎えた。1915年ダーダネルス海峡進攻作戦失敗の責任を負って辞職し,一少佐として西部戦線に従軍のあと,1917年7月ロイド=ジョージ内閣に軍需相として復職,戦後1919年陸相兼航空相として対ソ干渉戦争を指導した。1921年植民相に転じたが,1922年秋の総選挙で落選して議席を失う。この間『世界の危機』(全4巻,1929)の著述に従事し第一次世界大戦の歴史叙述を遺したが,自由党の凋落と労働党への接近に反発して脱党,1925年保守党に復帰して,ボールドウィン(1867〜1947)内閣の蔵相に一時復帰し,金本位制への復帰を実施したがケインズらから時代錯誤の批判を受けた。1929年マクドナルド(1866〜1937)の第二次労働党内閣の成立のさい下野してからあとの10年間は,議席はあったが保守党反主流の立場に立って入閣しておらず,政府に対し不十分な軍備を警告するとともに,1938年9月30日にミュンヘン協定を締結したチェンバレン(1869〜1940)内閣の対ドイツ宥和政策を厳しく批判した。その間,『わが半生』(1934),『マールボロ,その生涯と時代』(全4巻1933〜1938)を執筆,造園や絵画の腕も磨いた。公職復帰の世論の高まりに迎えられて1939年の対ドイツ宣戦の日にチェンバレン内閣の海相に再任,1940年ノルウェー作戦の失敗に伴うチェンバレン首相の失脚のあとを襲って5月10日に首相に就任し,ヒトラーとの断固抗戦を信条とする不屈の戦争指導にあたった。当時ヒトラーはヨーロッパの覇王のような感のあったときで,同年9月ドイツ軍のイギリス本土上陸作戦実施の危機にさらされていたが,ヒトラーにその機会を与えず,ついで独ソ開戦後の1941年8月,ルーズヴェルト大統領とともに大西洋憲章を発表して,戦争目的を明らかにした。同年12月に参戦したアメリカとともに戦中カサブランカ・カイロ・テヘラン・ヤルタ・ポツダムの諸国際会談で活動し,第二次世界大戦のイギリスの勝利をもたらしたが,大戦終結直前の1945年7月の総選挙に敗れ,首相の座を労働党のアトリー(1883〜1967)に譲った。戦後1946年3月,アメリカのミズーリ州フルトンで行った「今日,バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステにいたるまで,鉄のカーテンが大陸を横切っておりている」という反ソ演説は,冷戦の到来を予告した発言としてよく知られている。1951年の総選挙の結果77回目の誕生日の直前に首相に返り咲き,原爆の保有に力を入れて対外的発言力の上昇をはかることに努めたが,1955年老齢のため党首と首相の地位をイーデン(1897〜1977)に譲って引退した。1953年にはガーター勲章を受けてサーの称号を得るとともに,ノーベル文学賞も受賞した。第二次世界大戦後刊行された傑作としては『第二次大戦回顧録』(全6巻,1948〜1954)と『英語諸国民の歴史』(全4巻,1956〜1958)がある。1965年1月24日,90歳の生涯を閉じた。〔参考文献〕河合秀和『チャーチル』中公新書,1979,中央公論社
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