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●チャガタイ=ハン国 チャガタイ=ハンこく

アジア モンゴル国 AD 

 チンギス=ハンの第2子,チャガタイの後裔によって中央アジアにたてられた国家。チャガタイは,チンギス=ハンより4個の千戸集団の遊牧民を与えられ,天山山脈の草原を所領として指定された。本拠地は,イリ渓谷のアルマリク付近に置かれていた。後には,草原のみならず,中央アジアの定住民地帯をも統治下に治めるようになった。チャガタイ以後の首長は13世紀の末に至るまで,外部の政争に巻き込まれてチャガタイ系内部で自主的に選び出すことができなかった。あるいはムンゲ=ハン,あるいはアリク=ブガ,あるいはカイドゥなど,外部の有力者をチャガタイ系のうちより選び出して据えることが繰り返された。1260年のフビライ即位を機として,フラグやジュチ系のベルケがそれぞれイル=ハン国・キプチャク=ハン国をたてて自立していったのに対し,チャガタイ系は,外部勢力への従属的地位から脱却することができなかった。

 1261年,フビライと抗争中のアリク=ブカは,チャガタイ系の首長としてアルグを送り込んできた。アルグは,アリク=ブカと手を切り自立したかに見えた。1266年ムバーラクシャーがその後を継いだところへ,フビライがバラクを送り込んできて権力を掌握させた。バラクはフビライから離反したものの,オゴタイ系のカイドゥ勢力と戦って敗北を喫したため,イリ地方と東トルキスタンをカイドゥ側に引き渡し,かつそれに従属することになった。バラクが後イル=ハン国領へ侵入したのも,カイドゥの命を受けてのことであった。バラクのあとの首長,ニクベイ=オグル・トゥカ=ティムール・ドゥワは,いずれもカイドゥの推した人物であった。13世紀末,14世紀初頭,カイドゥ=ドゥワの軍は,元朝軍と戦って破れた。1301年,カイドゥは退却の途中で死亡した。そこでドゥワは,一方では,オゴタイ系勢力のなかで少数派のチャパルを支援してその内部での対立を助長しつつ,他方では,かつてカイドゥに取り上げられた領土を回復すべく元朝に服し成宗ティムール=ハンのお墨付を得ようとした。1303年,ドゥワは元朝に降った。1304年,元朝とオゴタイ系チャパルと,チャガタイ系ドゥワの間に正式に和平が成立したが,そのあとドゥワ・チャパル両勢力のあいだで衝突が繰り返された。結局,チャパルはドゥワ軍と元朝軍に攻められてドゥワに降った。ドゥワはチャパルの罪状をあげて廃位し,オゴタイ系勢力を自己の傘下におさめ,チャガタイ系・オゴタイ系両勢力の立場が逆転することになった。ここに至って名実ともにチャガタイ=ハン国が成立したのである。1307年にドゥワが死んでから,チャパルらオゴタイ系は勢力の回復を試みたがついに失敗に終わり,チャパルは元朝側に逃げ込まざる得なくなった。ドゥワ以後だいたいその諸子がハン位についた。1310年代に入ってアフガニスタンをめぐってイル=ハン国と戦い,元朝軍に攻められたこともあった。ドゥワの諸子のなかで,1320年代前半に在位したケベクは,遊牧貴族の掠奪などの恣意的行動を抑え中央集権化をめざす政治を行った。自身イスラーム教徒ではなかったが,イスラーム教徒の間では「公正な統治者」として評判が高く,それを物語るエピソードが幾つか伝えられている。

 14世紀の中期に至ってチャガタイ=ハン国は東西に分裂した。西のトランスオクシアナでは,はじめ1343年,カーザーン=ハンがトルコ系貴族に推戴されたが,その貴族の有力者ガズガーンは,カーザーンを倒し,一度はチャガタイ系との関係を断った。後にまたチャガタイ系からハンが選ばれるようになった。ただ実権はトルコ系貴族に握られていた。一方,東のモゴリスタンでは,トゥグルク=ティムールが1343年よりハン位についていたが,1360年,トランス=オクシアナの混乱に乗じて侵入して勝利を収め,一度回復されると再度侵入し,自分の子イリヤース=ホージャを太守として配置しチャガタイ=ハン国の再統一を実現した。その後,太守に仕えていたティムールが台頭し,1369年にはトランスオクシアナの事実上の統治者となり,さらに1371年よりモゴリスタンにも侵入しやがて中央アジアに新帝国を築き上げた。