●茶 ちゃ
AD
ツバキ科の常緑低木で,葉を加工して飲料とする。茶は中国・南アジア・東南アジア・日本に分布するが,原産地は中国の東部・東南部,チベット高原からタイ・ビルマ・アッサムにかけての地方の二つの地域が考えられる。茶の葉を生で食べたり煮て食べる飲用以前の利用形態がミャオ族・ヤオ族など東南アジアの山地民族で続けられているが,この風習が漢民族に伝わり,薬用,さらに日常の飲料として加工利用されるようになった。【分布】茶は亜熱帯原産の植物で,生育に必要な温度は年間平均気温13度以上,降水量は年間1,400ミリ以上で,春から夏の生産期にその約60%が降るのが望ましいとされている。北はソ連のカフカス地方から,南はアルゼンチン北部・南アフリカのナタール地方にいたる広い地域に分布している。わが国では,北海道と青森県を除くすべての都府県でみられるが,経済的意味のある栽培は新潟県と茨城県を結ぶ線から西の地方に限られる。温帯では平地や台地や低い丘陵で栽培されるが,熱帯ではスリランカで海抜2,000m,インドネシアで1,500〜1,800mと一般に高地で栽培され,高地産の茶が上級品とされる例が多い。
【品種】茶は植物学的に,アッサム種・中国種・中国大葉種・シャン種の四変種に分類される。栽培種としては,アッサム種・中国種と両種の雑種であるアッサム雑種が重要である。中国種(茶)は日本・中国・台湾など温帯地方で主に緑茶用に栽培され,日本茶とも呼ばれる。アッサム種(茶)はインド・スリランカ・インドネシアなどで栽培され,主に紅茶用にされる。高木性で自然のままにおけば10m以上の高さになる。アッサム雑種(茶)はスリランカ高地・インド北部のダージリン地方などで栽培され,高級な紅茶用に使われている。日本で栽培される茶は固有種(山茶)や中国伝来のものなどの混合種で,静岡種・宇治種・狭山種などの在来種がある。それらから育成された優良品種・ヤブキタ・アサツユ・サヤマミドリなど数十の品種があり,煎茶用や玉露用など用途も決まっている。
【栽培】茶の繁殖には種子をまいて苗をつくる方法と,とり木やさし木で増やす栄養繁殖法がある。種子繁殖は容易で,中国・インド・スリランカ・インドネシアではこの方法によっており,日本でも以前は実生(みしょう)繁殖であったが,現在では栄養繁殖が多く,優良品種はすべてこの方法によって増やされる。わが国では一般に春茶の種子をまき,3年目から茶つみが始まり,7〜8年で成木になる。さし木は梅雨期に行われ,翌年の春か秋に苗を定植する。うね幅1.5m・株間30〜50cmに苗が植えられるが,傾斜地では斜面に直角にうねをつくる。地方によって斜面に並行な,たてうねに植えられるところもある。成木となる7年目には樹高70cm程になる。苗を定植してから3年目から茶の木を刈込み,成木となるころには茶葉の摘採に便利なように形を整える。仕立て形は摘採方法や品種によって異なるが,手摘み時代には丸形がふつうであったが,鋏み摘みが大正期から普及するにつれてかまぼこ形が多くなった。昭和30年代以後,機械摘みが一般的になり,かまぼこ形はしだいに長く丈の低い箱の形に変わってきた。茶園は茶の種類によって緑茶園と紅茶園に分けられ,緑茶園は煎茶園・玉露園・碾(ひき)茶園に分けられる。玉露園・碾茶園は茶園全体に棚をつくり,それに覆いをかけて日光をさえぎる季節が茶摘みの始まる直前にあるので覆下(おおいした)園と呼ばれる。熱帯地方の古い茶園には,マメ科の木が被陰樹として植えられている。茶摘みは,生育期間の長い熱帯と短い温帯とでは時期と回数が違う。わが国では年3〜4回行われる。5月上旬の一番茶と7月上旬の二番茶を中心に,静岡県では3回,関東地方では二番茶まで,九州では4回である。熱帯では茶摘みに季節性がなく,スリランカでは5〜10日おきに1年中回り摘みする。わが国では今日機械摘みが普及したが,動力摘採機には背負式・可搬式・自走式などの機種がある。手摘みは現在では上級緑茶の場合にだけ行われている。
【製茶】大きく不発酵製茶・半発酵製茶・発酵製茶の三つの製法に区別される。摘んだ茶葉をなるべく早く加熱して酵素を破壊し,製茶する緑茶は不発酵茶である。加熱の仕方には,蒸気で蒸す方法と釜で炒る方法があり,日本の緑茶の大半は前者で,中国の緑茶は釜炒り製法による。紅茶は茶葉を発酵しやすいように柔らかにしてから製茶する発酵茶で,ウーロン茶は緑茶と紅茶の中間の未発酵茶である。緑茶の製茶は茶の種類によって工程が多少異なるが,蒸熱・粗揉(そじゅう)・揉捻・中揉・精揉・乾燥の順に行われる。蒸熱は高温の蒸気で短時間蒸し,冷風で急冷する。現在ではこれらの工程はすべて専用機械で行われるが,明治後期以前は全部手で,焙炉(ほいろ)のなかで行われた。最近では全工程が完全に自動化された製茶機械が普及してきた。釜炒り製法では茶葉を蒸さず,初めから釜で加熱しながら製茶がされる。玉露や煎茶などはこの全工程を通るが,他の茶は製法がもっと簡単である。番茶は蒸熱後粗揉し,精揉・乾燥して製品になる。抹茶用の茶は茶葉を蒸し急冷した後,揉まないで高温で乾燥させ,葉柄・葉脈を除いて石臼で低温に保たれた室内で粉末にする。紅茶の場合には,萎凋(いちょう)・揉捻・玉とにふるい分け,発酵・乾燥の工程を通る。風通しのよい日陰で茶葉の水分を蒸発させて柔らかにし,揉んで発酵をはやめ,揉捻でできた茶葉のかたまりをといてから湿度の高い部屋で発酵させ,乾燥させる。最近では緑茶の工場が大型化したが,紅茶の工場は従前から規模が大きかった。
【茶の種類】発酵茶と非発酵茶に大別される。紅茶と緑茶がそれらの代表的なものである。緑茶は煎茶・緑磚(だん)茶・覆茶の三種に分けられる。また産地による区別(宇治茶・静岡茶・狭山茶など)や製茶の時期による区別(一番茶・二番茶・三番茶)もされる。芽茶・葉茶・茎茶など原料とする茶葉の主に使う部分による分類もある。煎茶は伸(のび)茶と玉(たま)緑茶に分けられるが,一般には伸茶が煎茶と呼ばれる。伸茶とは葉を細長くよってあるものをさし,玉緑茶は煎茶の製茶工程の精揉工程を省略して,釜炒り茶に形を特有の丸形に仕上げたものである。北アフリカ向け(モロッコ・アルジェリア・チェニス)輸出用の茶で国内消費はほとんどなく,輸出が停滞しているため最近では生産はわずかになった。釜炒茶はわが国では九州で生産され,佐賀の嬉野茶と熊本・宮崎の青柳茶が代表的なものである。玉露は緑茶の最高級品で,覆いをした茶園から摘んだ葉を用いて製茶される。宇治茶を代表するものである。番茶は煎茶用に葉を摘んだ後の残りの新葉でつくったものでいくつかの種類がある。川柳は番茶の上級品で,奈良・京都で産し,茶がゆに用いられる。焙(ほうじ)茶は番茶を強火で焙じたもので,玄米茶は番茶を焙じるとき玄米を混ぜ,大阪で生産が始まった。抹茶は覆下園からとった葉でつくるが,濃(こい)茶と薄(うす)茶の違いがある。濃茶は覆いを厚くして光を遮る程度を大きくして柔らかい葉を摘みそれを製茶する。薄茶の場合は覆いが簡単で,葉の色は鮮かな青緑色で濃茶は濃緑色で苦味が弱い。抹茶は宇治が有名で,生産は愛知県西尾市が圧倒的に多い。磚(たん)茶は番茶や茶の木茎や紅茶屑などの粗悪品を蒸し,板状に圧縮乾燥したもので,モンゴル・チベットなどではこれを削って乳に混ぜて沸かして飲む。原料が緑茶のときは緑磚茶と呼ばれる。中国では緑茶は釜炒り製法でつくられ,種類と銘柄が多数ある。浙江省杭州付近の竜井(ロンチン)茶・浙江省武義や安徽(あんき)省歙(しょう)県の大方(ターハン)茶・安徽省黄山などの毛峰(モウホン)茶などが最も有名である。紅茶は産地がインド・スリランカ・インドネシア・東アフリカ・南アメリカと非常に広く,世界の茶生産の3分の2以上を占める。スリランカの高地やインドのダージリン地方などの高地産のものが最も良品質で,中国種の茶葉からつくられるものが多い。低地産はアッサム種が多く,品質が劣る。紅茶は緑茶に比べ変質しにくいので流通範囲が非常に広く,コロンボ・カルカッタ・ナイロビなどの産地の大市場だけでなく,ロンドンなどの消費地にも大市場があり,包装(パッカー)業者によって世界の消費市場に供給される。イギリスの業者がこの業界で中心的役割を果たしている。(烏竜)茶は台湾と中国の特産で,味は緑茶に近く特有の花様の香りで,油脂の多い中国の食事に合わせてつくり出された茶である。
【喫茶の歴史】最も古いのは中国で,世界各国の茶の名称がすべて中国語の茶の音「チャ」に発していることからも喫茶の起源は中国にあることが想像される。茶の始まりについては多くの言い伝えがある。中国では2千年あまり前に書かれた『神農本草経』に神農氏が百茶をなめて医薬を探し,毒草の毒を消すために茶を用いたと言われる。日本では面壁九年の坐禅をしたと,達磨大師に茶の始まりが関係があると言い伝えがある。中国で喫茶の方法が具体的に書かれたのは,3世紀半ばごろの三国・魏の張揖の「広雅」が最初であった。当時四川地方では,野生の茶の葉に茶の膏を加えて餅の形をした茶団子をつくり,火であぶり砕いて茶碗に入れ湯を注ぎ,ネギ・ショウガ・ダイダイなどを入れて飲まれた。茶は350年ごろから栽培されるようになった。当時,茶は医薬としての煎じ薬で,摘んだ葉をそのまま煎じていた。この世紀ごろからしだいに喫茶の風習が広まり,ことに三国時代には飲酒に代わって喫茶が奨励され,仏教会界では飲酒が五戒の一つとして戒められていたので,喫茶は仏教・とくに禅宗と密接に結びついた。5世紀初めにはすでに磚茶もつくられ製茶法もできていた。隋代の6世紀ごろには茶は初めて一般的な飲物となり,唐代の8世紀末には全国的に盛んに飲まれていた。760年に唐の陸羽は『茶経』を書いた。『茶経』は茶に関する専門書で,茶の歴史・性質・効用・栽培法・喫茶法・煎じ方・茶道具・茶園など,茶に関する一切を詳述しており,後の茶道の手本となった。後年中国にきたヨーロツパ人も,もっぱらこの本で茶に関する知識を得ることができた。陸羽は今でも茶祖として崇敬されている。陸羽時代の茶は磚茶であった。10世紀以降宋代には喫茶の風習は中国全土に広まり,茶の通人の間では抹茶が盛んに飲まれ,禅寺では達磨大師像の前で,僧侶がおごそかな儀式のもとに茶を喫する風習が生まれた。このころから優れた茶器もつくられるようになり,同時に茶は中国の重要な産物の一つとなった。このように古い伝統をもつ中国の喫茶の風習が,最初に日本に伝えられた。
【日本】わが国は仏教の伝来とともに,喫茶の風習を早くから受け入れた国で,長い間世界との交渉がなかったため日本独特の喫茶文化を発展させた。593年ごろ聖徳太子の時代に,仏教とともに中国から喫茶の風習が伝わった。その後,遣唐使や留学僧が茶の種子を持ち帰り寺院の境内などに栽培を始めた。それゆえ茶と寺院は関係が深い。729年(天平1)には,聖武天皇は仏書講読に召された僧侶に挽茶を賜った。日本における茶栽培者の最初の記録は行基で,彼は全国を行脚して寺院を建立するとき,寺院に茶の木を植えたと伝えられる。805年(延暦24)に唐から帰った伝教大師は持ち帰った茶の種子を比叡山麓の坂本に植え,翌年弘法大師も中国から茶の種子を持ち帰り,全国各地に植え栽培法を伝えている。当初は茶は上流階級や僧侶だけで用いられ,主として医薬の一種であり朝廷でも薬草園に茶を植えていた。平安末期に世が乱れるにつれ喫茶の風習も栽培もすたれた。喫茶の風習が初めて一般庶民に広まるようになったのは鎌倉時代からで,ことに禅宗と結びついた武家階級によって精神修養法として取り入れられた。1191年(建久2)に栄西禅師が宋から茶の種子を持ち帰り,筑前国(福岡県)の背振山(せぶりやま)の山中や博多に植え,茶栽培を各地に広めた。栄西は『喫茶養生記』を著し茶の効用を述べ,喫茶を長寿の薬として推奨した。栄西から茶の種子をもらった明恵(みょうえ)上人は,京都の栂尾(とがのお)や宇治にそれを植え,喫茶を奨励してから畿内にも茶の栽培が復活した。喫茶の風習はしだいに国内に伝播し,茶も栽培されるようになった。鎌倉時代には寺院の多い鎌倉は茶の産地になっていた。鎌倉時代の初期に瀬戸焼が発達し,これが喫茶用器として盛んに利用され,喫茶の流行を促した。室町幕府八代将軍足利義政のころから茶道が盛んとなり,織豊時代には,新興の堺や他の都市の町人階級の間で今日の茶道の基礎がつくられた。近世初期には新しい手揉み式の緑茶製法が伝来し,煎茶による喫茶が始まった。1660年の宇治黄檗山万福寺の開創に始まるといい,または石川丈山を開祖とするともいうが,煎茶方式は,一般庶民に喫茶の風習を普及させることで大きな役割を果たした。近世初期の茶は,抹茶と釜で炒って揉み干し番茶に近かった。1738年(元文3)に山城国(京都府)で甑を用いた蒸製煎茶が発明され,1835年(天保6)に宇治の山本嘉兵衛によって玉露の製法が始められ,日本の製茶法は一大変革を遂げた。中国から伝来した製茶法は,蒸製煎茶によって中国の釜炒り製法とは異なる日本独特の風土と嗜好に合った茶を発達させることになった。近世末期には喫茶風習の庶民への普及に伴い,全国各地に茶の産地が形成され,宇治・駿府などには茶問屋集団も成立した。東北の一部を除き,城下町の多くが近辺に茶の産地を抱えた状況が大なり小なり見られた。
【アジア】日本以外のアジア諸国にも中国から喫茶の風習が伝来したが,アラビア人は交易を通じて9世紀以来茶を知っていた。チベットには唐の時代に仏教の普及とともに茶が伝わった。モンゴルでは13世紀ごろに喫茶風習が広まり,西アジアへはモンゴル人の進出に伴い伝わった。中央アジアの乾燥地域や高原地方では,住民はビタミンCの欠乏に悩んでいるため,乳やバターや塩を混ぜた湯で煎じた磚茶は生活必需品である。重要な交易品で中国から隊商によってチベット・モンゴルから中央アジアへ運ばれた。明と清の政府はチベット人・モンゴル人を懐柔するため茶を供給していた。16世紀にヨーロッパ人がアジアに進出してきたが,オランダ人は中国茶をヨーロッパに紹介し,これが西洋人の嗜好に合い茶はたちまち中国の主要輸出品目の一つになった。早速ヨーロッパ人は南アジアと東南アジアの植民地で茶の試作を企てたが成功しなかった。1684年にジャワで,ドイツ人の密貿易者が日本茶の種子で栽培を始めたが失敗した。その後,1827年にオランダ東インド会社が中国から茶の種子と栽培家や製茶を迎えて成功し,ジャワの製茶業の基礎がつくられた。1878年には,1823年にインドのアッサムで発見された自生の茶の種子がジャワとスマトラに導入された。それ以後紅茶が盛んにつくられるようになり,最近ではコーヒーに代わって世界的に知られている。イギリスの東インド会社はジャワのオランダ人の茶栽培に刺激され,インドで茶栽培を計画した。19世紀初め以来中国茶の移植をはかったが成功せず,アッサム種の利用と製茶法の改良によってインドを世界最大の紅茶生産地にすることができた。スリランカでは病害で壊滅的打撃を受けたコーヒーに代わって,19世紀の30〜40年代から茶栽培が盛んとなり,イギリス資本の経営のもとにセイロン紅茶の名声を高めることになった。第二次世界大戦後,インドネシアもスリランカも外国人経営のプランテーションを接収して,農民の協同組合経営や個人の小農園に分割してきた。このためしばしばイギリス人の支配する世界の紅茶市場で不利な立場に立たされ,生産は停滞ないし不振気味である。
【ヨーロッパとアメリカ】15世紀末にインドに渡来したヨーロッパ人は,16世紀初めから東洋で植民とキリスト教の布教活動を開始した。16世紀中ごろ以降には,中国と日本の茶についてヨーロッパで知られるようになった。主として航海業者とイエズス会の宣教師により喫茶の風習が伝えられた。1559年にベネツィア人ジョバンニ=バチスタ=ラムジオが,その著書『航海と旅行』のなかで中国の茶について述べた記事が最初のものである。ヨーロッパへ茶を初めて輸入したのはオランダ人で,オランダの東インド会社は1610年以来,ジャワのバタビヤを根拠地として中国や日本の茶をヨーロッパへ輸出し各国に売り広めた。一方,イギリスの東インド会社も東洋貿易に進出しオランダと覇権を争ったが,1623年アンボイナの虐殺を機にイギリスはインドに後退を余儀なくされ,以後東洋の茶はオランダの東インド会社により独占的にヨーロッパへ輸出された。オランダでは1630年ごろから喫茶が始まり,オランダから他の国々へ喫茶の風習が急速に広まった。フランスはパリに1648年ごろ初めて茶が現れた。ドイツには1650年ごろオランダ人の手を経て茶が入った。フランス人とドイツ人はコーヒーの愛用者で,喫茶の風習は深く根を下さなかった。スカンディナヴィア諸国やイギリスにもオランダ人を経て広まった。イギリスでは1598年に茶が知られ,17世紀中ごろから輸入されるようになった。茶にミルクを入れる風習はオランダからヨーロッパ諸国に普及したもので,茶はコーヒーやココアより健康によい飲料として好まれ,主に上流社会で飲まれ高価なものであった。イギリスでは,18世紀の中ごろから喫茶の風習が一般家庭に普及し,ティータイムが一つの制度にさえなった。イギリスは1669年にオランダからの茶の輸入を法律で禁止し,イギリスの東インド会社が茶の貿易に従事した。19世紀初めからインド・スリランカで紅茶の生産を開始して,世界の紅茶業界を支配し莫大な利益を得た。東洋との茶貿易でイギリスの航海業が発展し,そのための訓練が今日のイギリス海軍の伝統をつくった。アメリカでは17世紀中ごろ,ニューアムステルダム(現在のニューヨーク)ヘ移住してきたオランダ人が喫茶の風習を伝えた。1670年にはマサチューセッツ植民地のイギリス人が喫茶を行い,最初は紅茶が飲まれていたが,18世紀初めから緑茶が飲まれるようになった。当時コーヒーは上流階級の飲料で,茶は一般家庭の飲料であった。18世紀の中ごろからイギリス本国政府は,植民地人に印紙条令とともに茶税を課した。それに反発した植民地人は,1773年にボストン港に入港した茶船を襲って茶箱を海中に投じた。これがきっかけで1775年に独立戦争が勃発し,翌年独立を宣言した。アメリカは日本が開港するとともに,生糸と並んで日本茶の大市場となった。日本茶の対アメリカ輸出は第一次世界大戦前まで盛大で,日本の茶農民の生活の向上に大いに寄与した。しかし,その後アメリカ人の嗜好は茶からコーヒーに移ってしまった。明治初期に日系移民がカリフォルニアで,日本から持って行った茶を試作したが成功しなかった。
【日本の茶業】世界の茶の生産量は約200万tで,そのうち3分の2以上が紅茶で,3分の1足らずが緑茶である。世界の茶の約90%はアジアで生産され,緑茶は主として中国・台湾・日本で生産される。日本の茶の生産量は9万tで,緑茶は台湾・中国から補足的に輸入される程度で,ほとんど国内生産で賄われている。生産県は静岡・三重・鹿児島・京都・埼玉・滋賀・宮崎・福岡・茨城・熊本などで,静岡茶が半分以上を占める。明治以降,茶はわが国の重要輸出品の一つに数えられるようになった。しかし第二次世界大戦後,1954年に一時戦前水準に復したが,以後不振を続け,中国茶・台湾茶との競争にあって細々と続けられているにすぎない。戦前の市場はアメリカ合衆国であったが戦後は北アフリカに変わった。日本の茶業の特色は蒸製煎茶中心の生産にあるが,明治中期以後一貫して製茶・摘採・再製の機械化を推進してきたことである。機械化のために茶が粗製乱造となって結果としてアメリカ市場を失ったこともあったが,機械製茶により茶の消費は著しく普及した。第二次世界大戦後は品種改良も進み,機械化も飛躍的に向上し,国民生活の向上に見合うように茶の品質が向上してきた。茶は高級な嗜好品の性格が強く,茶道文化とともに日本を象徴する民芸的特質を増してきたように思われる。手摘みは少なくなり機械摘みが圧倒的な昨今,5月の茶摘みには風物詩の色合いがまだ濃く残っている。