●地名伝説 ちめいでんせつ
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【地名の研究】日本における科学的な地名の研究は柳田国男によって始められた。柳田の推定によれば,日本の地名は少なくとも数千万,多ければ億に達するかも知れないという。杉田はそれら地名の命名に次のような三段階を考えた。[1]狩猟・漁労の採取時代に,生活上利用される土地に付けられたもの。簗場・葛原など。[2]農耕が主要産業となった時代に付けられたもの。(イ)経済上の理由によるもの。土地の占有・所有権の標識として命名された。名・垣内・庄・坪,または長田・小町・船場など。(ロ)信仰の状態を示すもの。油免・佛餉田・狐塚など。(ハ)制度・法制によるもの。一番割・五反田・定納など。[3]占有地名地域内で,分割相続や社寺への寄進そのほかの必要に応じた分割地名。方位・大小・上下・新古など。これらは長期にわたり,新旧の呼称を併存させつつしだいにその数を増したものと考えられる。【『風土記』そのほかの地名伝説】地名の命名は,大まかに以上のような展開の過程をたどったと思われるが,さまざまの理由で地名の原義が不明になることは多く,そのような事態はすでに古代に生起していた。『風土記』には多くの地名説明伝説が記されているが,それらは如上の事情をうかがわせるに十分である。それらの地名伝説は地名の由来を伝承の側面から述べるもので,地名のおこった真の根拠を科学的に探究しようとするものではない。『風土記』の場合,その説明は,音の相通による語呂合せなど牽強付会のものが多い。一例を示せば『常陸国風土記』行方郡男高の里の条に「鯨岡(くぢらをか)」なる地名を説明し,上古,海鯨が匍匐(はらば)い来って臥せた事によるとする。ちなみに鏡味完二は,“鯨”は岬・自然堤防・砂丘など,“長く連なる丘状地形”に付けられた「Kusi」なる語に由来するとし,また吉田茂樹は鏡味説を批判して,「崩ら(くぢ)ら」即ち“海食崖の著しい地形”の意であろうとする。
【神・貴種・英雄との結合】『風土記』には地名の起源を,神・貴人・英雄などに結びつけて説こうとするものも多い。たとえば『常陸国風土記』茨城郡田餘(たまり)の里の条に,水部が掘った清水を巡幸した倭建命(やまとたけるのみこと)が「よく渟(たま)れる水かな」といい,地名となったとする。また行方郡行方の里の条に,「玉の清水」の名を説明し,倭建命が手を洗い,玉をもって井を栄(さきは)えたことによるとする。これらには倭建命の東国遠征を結合させることによって地名に権威を与えようとする意図が表れており,伝説成立のうらには,命の伝承を伝える水脈発見の特能集団の関与のようなものが,あるいは想定できるかも知れない。『出雲国風土記』大原郡佐世(させ)の郷の条には,「佐世」の名が,須佐袁命(すさのおのみこと)が佐世の木の葉をかざして踊った故事に由来すると伝え,出雲郡杵築(きづき)の郷の条には,「杵築」の名が,大穴持命(おおなもちのみこと)の宮を諸神が杵築き給うた事に由来すると伝える。これらも土地の神々の古伝承に地名伝説が付会した例であるが,神々の神威による説明が最もよく人々を納得させると信ぜられたことによるものであろう。
【歴史的事実の反映】地名伝説のなかには,何らかの歴史的事実の反映をうかがわせるものも少なくない。『出雲国風土記』出雲郡漆沼(しつぬ)の郷の条に,「漆沼」の地名を説明して,天津枳比佐可美高日子命(アマツキヒサカミタカヒコノミコト)の別名を薦枕志都沼値(コモマクラシツヌチ)とし,土地の名はこれに因んだとある。加藤義成によれば,この神は元来“漆沼霊(シツヌチ)”という土地の神格であったものが,他国からの日神信仰の後期的侵入により,別名が生まれたものという。また大原郡神原(かむはら)郷の条には,「神原」は大穴持命の財宝を積んだ場所「神財(かむたから)」が本来だとする説を載せる。加藤は同地に存する4世紀中期以前の古墳から鏡や鉄剣が出土した事実から,この地名は大穴持命を信仰する豪族が神宝を納めた事に由来すると推論している。出雲郡宇賀郷の条には,黄泉(よみ)の坂・黄泉の穴の話があり,夢にこの窟(いわや)の辺にいたる者は必ず死ぬと伝えている。戦後この穴から先史・古墳時代の遺物と人骨が発見され,伝承に歴史的事実が反映していることが確認された。
【中古以降の地名伝説】中古以降の伝承にも,地名起源を説くものは散見する。『竹取物語』には,富士山の地名の由来を,山頂で不死(ふし)の仙薬を燃した事にあると記している。『今昔物語集』巻30は信濃の姨捨山(おばすてやま)の話を載せるが,これは棄老伝説に因む名であろう。『俊頼髄脳』には,この山がそれ以前には冠山(かぶりやま)と称したとしている。このほかにもまた後世の地名伝説は,弘法大師・聖徳太子・神功皇后など,貴種・高僧の信仰に関連して語られることが多い。たとえば弘法大師が杖を立てて清水を出したという類の「弘法井」等の地名には,大師を祖と仰ぎその信仰をもち歩いた密教僧等の介在があったと考えられる。羽黒参詣の途中で聖徳太子が乗馬を帰したという「駒返り」の伝説などには,坂・峠・山等の村境を彼我両界の境とした古い観想が反映していると思われる。「行人塚」「山伏塚」等の塚の名が地名となっている場合も多いが,これらは彼等が祭りを行った祭場の跡と思われ,民間信仰の地名命名への影響の大きさがうかがわれるのである。
〔参考文献〕『風土記』
柳田国男『地名の研究』1936,定本20
柳田国男『伝説』1940,定本5
鏡味完二『日本地名学(上)科学篇』1957,日本地名学研究所
谷川健一『地名の話』1979,平凡社
吉田茂樹『地名の由来』1979,新人物往来社