●地方志 ちほうし
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地誌ともいう。中国では方志とも呼ぶ。【『大明一統志』と地誌】日本における地誌編さんの歴史を考えるとき,風土記研究のパターンの上につくられ,新風土記の形をとった。もちろんそれには藩撰のごとき公撰と私撰との二つがあった。藩撰地誌の代表的なものに『会津風土記』『近江興地誌略』『常陸国誌』のごときものがあって漢文で書かれており,領域・自然・古墳・墓所・人物・物産などの項目別に書き上げられている。その様式は古風土記の形をとっている。
私撰地誌として名のあるものに『五畿内志』がある。これは『日本興地通志畿内部』60巻の通称である。その叙述はきわめて緻密なもので,その形式は『大明一統志』の形に倣ったものである。その内容は一国全体の建置沿革・府治・疆域・風俗・祥異・租税などを述べ,次に国を郡別に分け,町村ごとに経済・政治・景観・民俗などにふれている。また新編会津風土記は,『大明一統志』を模したものである。
【私撰地誌と案内記】私撰地誌でも『五畿内志』は1734年(享保19)並河識所の上書をもって完成している。その叙述は『大明一統志』によったことは前述の通り,しかるにそれにくらべると『攝陽群談』は〈此国の名所旧跡・神社仏閣のおこり〉などを書き,武士の心を和げることを目的として名所案内記的なものであった。したがって国俗の紹介,弁財天・荒神のごとき庶民行脚の案内まで見られる。さらに天王寺牛市場・天満の青物市場・大坂津雑喉場の魚市まで案内し,川辺郡一庫荘の説明まである。その他にも『雍州府志』『大和旧蹟考』『山城名勝誌』さらに『東海道名所記』『江戸名所記』『河内鑑』『江戸名勝誌』などの案内記が刊行されている。たとえば『出雲国風土記』を引用すると,玉造温泉の紹介さえ具体的に叙述されている。その反面美保神社の神事についてはふれていない。その点で当時の名所の定義が今日とは違っている。
【地誌編纂と国学者】遠州の代表的国学者内山真龍は『遠江国風土記伝』の完成に努めた。彼は『出雲風土記』の研究と天明の打こわしとのあいだに悩み,良属としての牧民の学を成立させるために,世の人々より“風土記翁”と称され〈自ら秋鹿郡人神宅臣全大理〉の再現天平の此の国学者の衣鉢をつぐと決意し,かつ万葉の英風をつぐ歌人として自誇しつつこの書を書いた。
また新庄道雄は,駿府北川町の御宿6代目,三階屋仁右衛門と称する豪商で,本居門人の影響と平田入門をし,かつ内山の刺激をうけて『駿河国風土記』を書き始めている。『豊前志』の著者渡辺重春は1831年(天保2)3月10日,豊前中津生まれの人である。彼は33歳の1863年(文久3)にこれを完成させている。これは郷里の地志として書いたものである。そのほかにも伴村光平『河内国上古水土考』のごとき地誌など数え上げればきりがない。これらは国学が地域に根ざした根生いの文化運動に支えられていることを示すものである。
【菅江真澄の地誌と民俗】1813年(文化10)久保田藩の内命をうけて『花の出羽路』『月の出羽路』『雪の出羽路』三部をたてて着手した。これは佐竹藩の地誌の先駆をなしたものである。彼は若いころより「凡国異器」「凡国奇器」に関心をもち続けている。それが民具への関心とその背景としての民俗への興味とつながる。これらは未完に終わったが,新風土記の趣もあり,地誌の体系の一つを示すものと言える。
【皇国地誌の編纂】明治国家の官撰地誌として,1873年(明治5)9月24日の太政官布告によって編纂されたものである。その後陸軍省も地誌編纂につとめ,やがて内務省地理局に地誌課がおかれ,地図作りが行われた。『皇国地誌』もその形式は『大明一統志』『大清一統志』の形をとり,[1]天皇帰一,[2]地域住民,[3]用兵書の立場にたっており,その推進者は塚本明毅であったが,その人がいなくなったことがこの展開を妨げている。その後その名を冠しているがまったく異なったものとなる。