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●チベット

アジア 中華人民共和国 AD 

【地域風土】アジア大陸の中央部に位置し,東は中国の陝西,甘粛,四川の各省に接し,西はパミール高原,南はヒマラヤ,北は崑崙山脈に囲まれた地域を地理的にチベットといい,現在は中華人民共和国チベット自治区となっている所である。首都はラサ。住民はほとんどチベット人で,彼らはチベットをボェ,チベット人をボパまたはペバと呼んでいる。チベットは平均高度海抜3,600mの高原で乾燥しており,冬は寒く風も強く,岩石が多く野草・樹木は少ない。河川流域のわずかな地域で農耕や牧畜が行われ,大麦・裸麦・唐辛子などが栽培され,釐牛・羊・馬などを放牧している。ヒマラヤの国ブータン,その西隣のインドのシッキム地区,ネパールの北半分,インドのヒマチャルプラディシュ州,ラダク地区などの住民は風俗習慣が多少異なり,ことばも方言差はあるがすべてチベット人種である。言語はチベット語であるが,大別して中央部のウ方言,東部のカム方言,南部のロー方言,西部のンガリコルスム方言およびブータンのドゥクパ方言,ネパールのシェルパボデ方言などに大別される。文字はいわゆるチベット文字で左横書き,子音30母音記号4から成り,書体はウチェン楷書体)とウメ(行草書体)とがあり,前者は版本,碑文,後者は写経・書簡に用いられる。伝承によれば,吐蕃の建設者ソレツェンガンポ王が632年にトンミサンボータをインドに派遣し,カシミール文字をもとに作成させ,7世紀末ごろから流布されたと言われている。そのほかに特殊なものとして,ボン教の古い典籍のみに使用されている文語体のシャンシュン語及びシャンシュン花文字があるが,これもおそらくインドの文字をもとにして作られたものと思われるが,その作成年代は不明である。

【歴史・宗教】古く中国史上に姿を現したテイ※注1※,羌(きょう),(けつ)などと呼ばれた種族はすべてチベット系の人種であったと言われている。日本史上では『日本書紀』に,聖徳太子のとき,百済からの渡来人に味摩之という名の笛の名手がおり,桜井の地で真野首弟子と新漢斉文がその指導を受けたと記されているが,この味摩之とはチベット系羌族の名であるという説がある。チベット高原に分散していた諸部族は6世紀末ごろからしだいに強力な部族に統合され,7世紀から9世紀にかけて吐蕃王朝として中国史上に姿を現した。この王朝は,ソンツェンガンポ王のチベット統一完成から250年間にわたり,統一国家として中国・インドと関係をもった。とくに唐とは和戦を繰り返し,数日間ではあったが唐の都長安を占拠したこともあり,また唐からは和蕃公主として,太宗時代に文成公主,中宗時代に金城公主が降嫁(こうか)し,唐と吐蕃の会盟碑も残っている。吐蕃王朝最後の王ランダルマウドゥムツェンの死(841ごろ)後は,王位継承問題に端を発して,貴族・軍人達の間に分裂抗争が繰り返され,長年にわたり小土侯の対立が続いた。宗教的には仏教のチベット伝来以前から広くチベットに流布したボン教がある。これは伝承によれば,紀元前5世紀末に西南チベットのカイラーサ山の南麓オモルンリンの谷で生まれたシェンラブミーボバラモン神学をもとにして始めたと伝えられている。そしてシェンラブミーボの系統を引くのが西チベットのシャンシュン土侯であり,グゲ土侯 Gu-ge であるとされている。仏教のチベット伝来後,とくに吐蕃王朝時代には絶えずボン教と仏教とは抗争を繰り返したが,現在は白ボン,黒ボンに二大別され,枝流も9流となって,西部チベットのツァン地方のグゲ,シャンシュン地区,東チベットのカム地方および西ネパールや西北インドに伝えられている。仏教は古くは2世紀末から入蔵する仏僧があったと伝えられている。吐蕃王朝の成立とともにソンツェンガンポ王に仏教国ネパールからアムシュバルマン王の娘ヴィルクチが嫁し(635),さらに唐の文成公主が降嫁し(641,貞観15),この両妃はともに仏像・経典を持参し仏僧を伴い入蔵した。王は両妃それぞれのためにツグラカン寺ラモチェ寺をラサに建立し,急速に仏教が広まった。また8世紀には仏教王チソンデツェンの出現によりボン教が弾圧され,続いて中国仏教が禁止された。インド仏教が国教とされ,シャンタ=ラクシタカマラシーラパドマサンバワなどのインド僧が布教につとめた。その後チツクデツェン王(在位815〜841)の熱心な仏教奨励により,仏典のチベット語訳も行われてチベット大蔵経の基礎ができたが,ランダルマ王の宗教禁断により,ボン教・仏教ともに激しい弾圧を受け,わずかに西チベットのシャンシュン・グゲ地方と東チベットのカム地方に法燈が維持された。ランダルマの死後吐蕃王朝は分裂し,群侯割拠時代に入る。西チベットと東チベットからしだいに宗教復興運動がおこってきたが,激しい弾圧の後で良い指導者もなく,仏教・ボン教ともに単独での復興が難しく,ここに両教の妥協が行われ,仏教化したボン教が生まれ,一方仏教もボン教の影響を受けてかなり変質した仏教となった。ちょうどそうしたころ,インドヴィクラマシーラ僧院の大学堂長アティシャの入蔵により以後のチベット仏教の方向付けがなされ,ここにカーダム派が生まれ,アティシャの影響下マルパおよびその弟子ミラレパによってカーギュ派が生まれた。12世紀にはコンチョクゲルポサキャ派を始め,ミラレパの孫弟子ドェスム=キェンパがカルマ派を始めた。これにパドマサンバワ以来の古いインド密教の系統を引くニンマ派があり,この時代にいわゆるラマ教赤帽派の諸派が出揃うのである。この内,サキャ派は蒙古帝国と手を結んで全チベットの支配権を手に入れ,この派のパスパ元朝のフビライ帝の信頼を得て帝師に任じられ,ラマ教は元朝から厚遇された。続く明朝もラマ僧を尊敬したため,ラマ僧はしだいに横暴となり堕落した。これに対し,14世紀にツォンカパが出てアティシャの仏教への復帰を唱え,ラマ教の改革を行い,ここに新教黄帽派すなわちゲールク派が生まれた。明の万暦年間にはこの派のソナムギャツォー内蒙古アルタン=ハンに招かれて内蒙古に布教し,ダライ=ラマ(3代)の称号を与えられ,ゲールク派盛行のもとをつくった。元末明初には中央チベットにバグモドゥ王朝が成立したが,この王朝もゲールク派を支持したためこの派は西チベットの一部を除く全チベットに広がって行った。17世紀には5代ダライ=ラマが出て,青海のホショット部の長グシ=ハンと手を結んで,旧教赤帽派を保護するツァンパ=ハン(蔵巴汗)を破り,グシ=ハンは中央チベットをダライ=ラマに,西チベットをパンチェン=ラマにその支配を委ねた。しかし実権はホショット部に握られていた。6代ダライ=ラマの執権サンギェ=ギャツォーは,ジュンガル部のガルダンと結んでホショット部を駆逐しようとしたが,ガルダンはハルハと争い,清の康煕帝の討伐にあって大敗し自殺した。サンギェ=ギャツォーグシ=ハンの孫ラサン=ハンに殺された。ガルダンの後を継いだツェワン=アラプタンがラサに攻め入り,ラサン=ハンを殺した。ここで清の康煕帝はジュンガル部を攻め,7代ダライ=ラマを擁立して軍をラサに入れ,以後清帝が歴代のダライ=ラマ選出に干渉するようになった。雍正帝のときにはラサに駐蔵大臣を置いてチベットの政治を監督させ,ダライ=ラマに政権を与えたが,駐蔵大臣と合同の上で人事・内政を行わせた。以来清朝の宗主権のもとにチベットはその保護国となった。19世紀末になり13代ダライ=ラマはブリヤート出身の側近ドルジェフをロシアに派遣してロシアと接近した。これに対しイギリスはチベットがロシアの東進政策に乗じられることを恐れ,1903年(光緒29)インド総督カーゾンは,ヤングハズバンド大佐率いる英印軍をラサに進攻させたため,13代ダライ=ラマは蒙古に逃れ,ガデン寺管長とヤングハズバンドとの間にラサ条約を結んでイギリスのチベットにおける優位的地位を築いた。一方清朝は,宗主国の立場からラサ条約を認めず,チベットに軍を進めたため,13代ダライ=ラマはインドのダージリンに逃れてイギリスの保護を求めた。辛亥革命を機に13代ダライ=ラマは中国の宗主権を否認し完全独立を主張した。第二次世界大戦後中華民国はチベットに自治権を認めたが,その後中国では内戦を経て中華人民共和国が成立し,1951年(民国39)にチベットに軍隊を侵入させ,1950年(民国40)5月「チベットの平和解放に関する協定」を結び,中国の宗主権を認めさせた。チベットの自治権の確立・現行制度の維持を認め,チベット自治準備委員会を設けたが,1959年(民国48)3月ラサを中心に反中国暴動がおこり,中国人民解放軍が大量にチベットに投入されたため,14代ダライ=ラマはインドに亡命し,委員会はチベット政府を解散させ,新たに中国共産党指導のもと,チベット人民自治区政治委員会を発足させ今日に至っている。

〔参考文献〕佐藤長『古代チベット史研究』同朋社

山口瑞鳳『吐蕃王国成立史研究』岩波書店

光嶌督『ボン教ラマ教史料による吐蕃の研究』成文堂

光嶌督『佛教のチベット流入とラマ教成立に至る過程について』教養論集國士館大学創立六十周年記念号

光嶌督『吐蕃王朝ボン教の興廃について』國士館大学教養論集10

光嶌督『The Bright Mirror of Royal Genealogies』國士館大学教養論集2〜5

光嶌督『The Bright Light of Bon』國士館大学教養論集12,16,18,19

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