●血の日曜日 ちのにちようび
NIS諸国 ロシア連邦 AD1905 ロシア帝国
1905年1月9日(露暦,新暦では1月22日)の日曜日。ペテルスブルグの労働者が僧侶ガポンを先頭に,窮状を直接皇帝に訴えるため冬宮前に赴き官憲と衝突,多数の死傷者を生じ第一次ロシア革命の発端となった事件。【ガポン運動】19世紀末〜20世紀初頭の労働者の革命的運動の高揚のなかで,政府は労働者の間に御用組合を結成させ,彼らをその枠内に繋ぎとめようと,1901年モスクワで政治警察所長ズバトフの指導のもとに,“機械工業労働者相互扶助会”“機械工業労働者協会”を組織させた。1903年末ペテルスブルグでも,政府は僧侶ガポンに「ロシア工業労働者同盟」という「協会」に似た組合結成を許可した。1904年2月日露戦争が勃発,愛国的感情の高まるなか4月にガポン組合の結成式が行われ,組合は多くの労働者を集め,11の支部と8,000人の組合員をもつまでに成長した。しかし,戦争による労働者の生活状態の悪化により,組合は資本家の圧迫に対する労働者の利益を擁護する機関としての面を強くし,7月従来革命運動を抑えていた内相プレーヴェが暗殺され,8月末遼陽陥落の報が伝えられたころには,〈専制政治打倒〉を叫ぶ者も出て組合の政治化がみられた。12月バクーにおいて大規模なストライキがおこり労働者はロシアにおける最初の団体契約締結に成功した。
【事件の勃発】1905年は旅順陥落の報のなかに明けたが,3日ガポン組合に属していた3人のプチロフ工場の工員の解雇に端を発し,参加人員1万3,000人のストライキが勃発した。6日ゼネストに転化,9日の日曜日約20万の労働者はガポンを先頭として,自分たちの窮状を直接ニコライ2世に訴えようと冬宮に向かって行進した。彼らは,言論および出版の自由,労働組合組織の自由,国家機構改革のための憲法議会の召集,日露戦争の中止,8時間労働制の施行などの要求も掲げていた。彼らが冬宮前広場に到達したとき,冬宮を守備していた軍隊が発砲して多数の死傷者が生じた。
【事件の解釈】血の日曜日事件については,大きく言って二つの全く正反対の解釈がある。一つはレーニンなどのボリシェヴィキのそれで,〈政府は軍隊の力を適用するような事態を惹起せんがために罷業闘争を発達させ,広汎なデモが開始されるよう故意に仕向けた。〉とし,事件が計画的なものであったとする。
またガポンは完全に政府の手先で,その日の悲劇的結末を知りながら労働者をそのなかに導き入れたとする。これに対し,政府側のウィッテなどは,〈政府は対策に迷ったために,示威運動防止の手段を取らず,最後の瞬間になって行列を宮殿に至らしめないことに決し,軍隊を急速に集めて市内の大通りや広場に配置した。〉とし,威嚇射撃に端を発し惨劇に至ったとする。またガポンは,労働者の熱狂に引きずられてデモ行為に出ざるを得なくなったとし,事件の計画性を否定する。なお,当日の死傷者の数についても,それを数百人とする説から数千人とする説まで意見が分かれている。
【事件の結果】ともあれ,この事件はペテルスブルグから,モスクワ・イヴァノヴォ・チフリス・バクーにいたる全国的抗議ストをよびおこし,春には各地に農民の反乱も始まり,それはヨーロッパ・ロシアの郡の7分の1,85郡に及んだ。奉天陥落・日本海海戦での敗北の報はこの情勢に拍車をかけ,6月にはポーランドのロッズでロシア最初の武装蜂起,黒海では戦艦ポチョムキン号上で水兵が反乱する軍隊における最初の革命的行動となった。これより先,社会民主労働党のボリシェヴィキは,4月ロンドンで第3回党大会を開き武装蜂起を決議,自由主義者の諸団体も5月モスクワで「団体連合会」をつくり,憲法制定議会の召集を要求した。血の日曜日事件は,労働者・農民・革命主義者・自由主義者の運動を一つに結びつけ,1905年革命の烽火となった。
〔参考文献〕西島有厚『ロシア革命前史の研究―血の日曜日事件とガポン組合―』1977,青木書店