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●地丁銀 ちていぎん

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 “攤丁入地”すなわち丁銀を田賦へ繰り込むことによって成立した,清代の租税項目。当時は単に地丁,もしくは地丁銭糧という呼び方が一般的であり,また江南では地丁として納入される銀を条銀と称した。制度的には雍正年間(1723〜1735)に確立したといえる。

【丁役と丁銀】明代中期まで国家の徴収する賦役は,土地税である田賦と種々の徭役の丁役とから成っていた。丁役は壮丁と呼ばれる16〜60歳の男子を対象とし,種々の徭役労働をこれに課すものであった。銀流通の拡大に伴い本来実物徴収を原則としていた田賦は,明中期よりその一部が銀納化されたが,丁役のなかにも銀納化されるものが出現した。こうした銀納化の趨勢は一条鞭法に結実する。従来は丁役の種目ごとに各戸へ割りあてる銀両を計算して,各戸より種目ごとに徴収していたものが,州県で各種の丁役に代替する銀両の総額を算定し,その総額を各戸に(戸数均分でなく各戸の壮丁数や負担能力に応じて)割り当てて一括徴収し,州県でこれを各種の費目に割り振って支出するようになったのである。こうして丁役の代わりに徴収される税目を丁銀と呼んだ。

 清代になってもこの方式が踏襲され,漕糧・南糧など田賦の一部が実物で納入されたのを除き,銀納化された田賦と丁銀とは一括して請求され徴収された。しかし各戸の田賦は土地所有面積とその肥瘠をもとに算定され,丁銀は各戸の壮丁数をもとに負担能力の大小を加味して算定されたのであって,両者はたとえ合わされても独立した税目であった。各戸への丁銀割当てを公平にするためには数年に一度(清代では5年ごと)編審という手続きをする必要があった。これは各州県で壮丁数の変動を調べ,各戸の負担能力の等級づけを新たに行って,割当て額を調整することである。しかし編審の事務は煩雑厖大であるうえに,実務にあたる胥吏・衙役が賄賂や情実によって不正を行うため,丁銀負担の不公平や貧戸への負担集中が避けられず,甚だしい場合には貧戸の逃亡の原因ともなった。この編審と丁銀負担にかかわる問題はもちろん明代から存在し,すでに明末に一部の州県では丁銀の田賦への繰込み,すなわち一州県の丁銀の総額を壮丁にではなく,耕地ないしは田賦納入額に割り当て,土地所有者からのみこれを徴収するという方法を便宜的に試行していた。しかしこの方法は清代になっても戸部の正式に認めるところとはならなかった。こうした状況のもと,康煕帝によって1711年(康煕50)の人丁数をもって全国の丁銀総額を固定するという決定がなされ,以後の増加人丁は盛世滋生人丁と名付けられて課税を免除された。これは編審制度の行きづまりに直面して,人口増加を財政収入増加に結びつける努力を国家が放棄したことを意味する。これによって“攤丁入地”への条件が整ったのである。

地丁銀制の成立と意味】1716年(康煕55)戸部は広東省での“攤丁入地”実施を議准し,四川省がこれに続き,さらに1724年(雍正2)直隷での実施を雍正帝が公に支持したことによって,5,6年のうちに大部分の省区で“攤丁入地”が実行された。ただ山西省では富裕者の多くが山西商人として商業に従事し,土地はあまり所有せぬという事情があって,一般農民が商人の丁銀を負担することに反対したため,一部の州県では1879年(光緒5)まで丁銀を分徴していた。その他,盛京・吉林なども19世紀になって地丁銀制を実行した。地丁銀制は,都市の商工業者や佃戸層の利益に合致し,丁口が少なく土地の多い地主富戸がこれに反対し,民衆が示威行動をもって実施を要求することが各地で見られた。また丁銀の消滅は,国税としての人頭税の消滅を意味する。ただ田賦納入の督促や州県・軍隊が課す臨時の差役など地方的・臨時的性格のものは残存した。こうして清代の国家は土地税を主要な収入とし,さらにそのなかでも地丁銀が大部分を占めた。国家歳入のうち地丁銀(とその公認の附加税である耗羨を含めて)の割合は,19世紀前半までは70〜80%に達していた。

〔参考文献〕郭松義『論“攤丁入地”』清史論叢第3輯,1982