●秩禄処分 ちつろくしょぶん
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明治政府によって行われた秩禄の整理処分を称するが,この処分を禄制改革・禄制整理・禄制廃止の三段階に分けてみると次のようになる。【禄制改革】最初の禄制改革は,旧幕臣で朝廷に帰順したものについて,1868年(明治元)9月に東京府在住者に対しては1万石以下5,000石までの1,000俵を最高とし,40石以下はそのままとした。そして1869年(明治2)6月各藩の版籍奉還に伴い,政府は各藩主を改めてその藩の知藩事に任命し,家禄を現石の10分の1に限定するとともに,藩士の家禄もこれに準じて適宜改革すべきことを命じた。また翌年9月には藩制を制定し,改めて藩高の10分の1を知藩事の家禄と定めるとともに,その残額の10分の1を陸海軍資に当て,残額をもって藩の政費および士卒の家禄に当てるべきものとした。これらの布達に基づき各藩はそれぞれの禄制改革を行い,その結果各藩藩士はいずれも家禄の大削減を受けた。一方,徳川幕府の家臣にして明治政府に帰順したものには,1869年(明治2)12月に,公卿をはじめ皇室直属の家臣には翌年12月に,それぞれ禄制の改革が行われた。
【禄制整理】1871年(明治4)7月廃藩置県の結果,これまで各藩で支給していた士卒の俸禄はすべて明治政府の負担となり,通常歳出の3割6分強も占め,大きな財政負担になった。そこで政府は秩禄制度の整理を行うこととし,まず1872年(明治5)2月,各藩で士卒の長男と二男・三男・隠居らに給禄または終身扶持を与えていたのを禁止,ついで同年4月12日に俸禄のほかに,救助あるいは手当など種々の名目で禄や扶持を与えていたものを年限の有無にかかわらず全廃し,さらに同月23日には,版籍奉還以後に召し抱えた士卒の給禄と増禄した分を廃止した。そして1873年(明治6)12月には,100石未満のものに限り,家禄・賞典禄の奉還を許し,永世禄として6カ年分,終身禄として4カ年分を下付した。その場合に半額を現金で,残り半額を年8分利付の秩禄公債を交付した。翌年11月にはこれを100石以上の者にも適用し,50石分は現金で,残りは秩禄公債を交付した。これと同時に奉還を希望しない者に対して高率の家禄税を課し,整理の推進をはかった。この奉還制度は,1875年(明治8)7月に中止されたが,この間に全士族の約3分の1(13万5,800余人),全家禄の約4分の1(約600万両)が整理された。なお同年9月には秩禄の支給方法も改革され,同年度以降,秩禄の支給は現米を廃止,前3カ年平均の各地方貢納石代相場を基準として金禄が改定されて支給されることになった。
【禄制廃止】以上の二段階を経て,政府はついに禄制を全廃することにしたが,これは1873年1月の金禄公債証書・1872年2月の地券交付・1873年7月の地租改正により,給禄存続の意義がなくなったことによる。そして1875年(明治8)11月,政府は金禄支給を定めて金禄公債証書を発行することにし,翌年8月には太政官布告第108号,金禄公債証書発行条例を公布した。すなわち家禄・賞典禄は永世・一代あるいは年限などをもって給与していたのを改め,1877年から金禄公債で一時に支払うことにしたわけである。その内容は,[1]永世禄−金禄元高1,000円以上はこれを11級に分けて,元高の7カ年半分ないし5カ年分に相当する額の5分利付公債証書を交付し,元高1,000円未満100円以上は13級とし,元高の7カ年7分5厘ないし,11カ年分に相当する額の6分利付公債証書を交付し,元高100円未満はこれを6級に分けて,元高の11カ年分ないし,14カ年分に相当する額の7分利付公債証書を交付する。[2]終身禄−永世禄の半額,[3]年限禄−年限の長短に従って6級に分け,永世禄の10分の1.5ないし10分の4を支給する。この公債は1877年から5年間すえ置き,6年目より抽籤で償還し,30年間で全部終わることとした。このようにして1877年(明治10)を期して秩禄制度はようやく廃止された。金禄公債を支給された者は,31万3,500余人で,発行額面高は1億7,390万2,000余円と現金73万5,000余円であった。