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●地租改正 ちそかいせい

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 1873年より1881年ころまでに明治政府の手で行われた,全国的な地価の測定と地券の下付を含む旧時代の現物納から金納へ転換した改正大事業。

【地租改正の必要性】明治政府草創期の財政事情をみると,幕府の所有地であった天領のすべてが新政府の財源として利用できたわけではなく,幕領没収高・奥羽戦役獲得分で約900万石,それから徳川家(府中藩)70万石と賞典禄100万石を差引くと,730万石にすぎなかった。それに海関税程度で,全国3000万石を収集するには,廃藩置県を待たなければならなかった。新政府の第1期の1年間は,したがって歳入のうち90%が紙幣発行と借入金による例外収入で,通常収入は10%強,うち55%が地租収入であったが,天領は全国に四散しており収税も困難であった。ここに秩禄処分と並行して地租改正が緊急の課題となった。

【地租改正案】蕃書調所の教授で幕臣神田孝平(1830〜1898)が新政府に出仕,1870年6月「田租改正建議」(発表は1872年)で検地とか石盛とか人為的な評価は客観性を欠くので売買で地価を決定すべきだとし,その後の建議でも,貢米を売って金に代え財源とすれば米価の高下で予算を決めることになるとして定額金納と地価に対する課税を提案,これが地租改正の理論的基礎となり,結局,売買地価主義は現状に合わずとして法定地価主義をとる陸奥宗光(和歌山藩士,租税頭,1844〜1897)が地方官の協力をとりつけて案を立て,次の租税頭・松方正義が大蔵省地租改正事務局長兼務で大久保利通総裁の下,実務一切を遂行した。

【地租改正の内容】1873年7月28日,「地租改正法」が太政官布告として出されたが,政府は勅諭のほか条例・施行規則・地方官心得を同時に布達して,人民の協力を要請した。地租改正の内容は次の通りである。[1]旧来の石盛に代わって,全国一律の規準で決定された地価を課税標準とし,課税の全国的統一をはかる。[2]税率は地価の100分の3を定率とし,年の豊凶によって増減はしない(ただし,天災で一定限の免租がある−−旧地租はこれがなかった)。[3]収納物件は貨幣とする。[4]納税義務者地券によって確定された土地所有権者とする。また,布告に添付された条例のなかでは,[1]偏軽偏重の苦情申し立ては原則として受理されない,[2]豊凶により増減しない,[3]田畑は一律に「耕地」,家屋の土地は「宅地」,[4]茶・煙草(タバコ)などの物品税収入が200万円以上になったら,税率を地価の100分の1に下げることが示された。[2]と[4]は新税の特徴といえる。さらに,翌1874年5月12日,5カ年間は最初決めた法定地価によるという章が追加された。

【地租改正の施行】地租改正に先立って地券が1872年2月,市街地に同年4月,郡村部に交付された(壬申(じんしん)地券)。1873年3月,地租改正事務局が設立されると,地価の決定と地券の交付を開始した。土地一筆ごとに農民の協力を得て所有者を確定したが不明確な入会地(いりあいち)は国有地に編入される場合が多かった(官有民有区分の確定)。問題は地価の決定で,地方官に示した第1則自作地,第2則小作地の計算例によると,自作地は,粗収益から種子代・肥料代と租税(村入費+地租)を差し引き,残った純利益を金利6%で資本還元(その純益を得るのにいくらの資本が要るか)して地価を決定する。小作地については粗収益から小作米・肥料代・村入費・地租を差し引いたものを金利4%で資本還元する例を示した。

【地租改正の意義】新政府は旧貢租収入と同額を確保する必要から地価を高く決定した。その不満から農民一揆が起こると,1877年1月地租率を100分の2.5に軽減したが,遂に100分の1には減額しなかった。しかし,地券交付と売買の自由を確立した点,近代的土地所有に基づく租税と見なし得る。一方,金納によって農民を商品経済に巻き込み農民層分解を促進した。

〔参考文献〕福島正夫『地租改正の研究』1962,有斐閣

大島清ほか『人物・日本資本主義1』1972,東京大学出版会