●地政学 ちせいがく
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スウェーデンの国家学者チェレーン(1864〜1922)が,その著書『生活形態としての国家』(1916)で,「地理学」と「政治学」とを結びつけた造語として登場した。日本では地政策学・地政治学などと訳されたが,昭和の初めの政治地理学界で“地政学”と訳されて広まった。「地政学」は,擬似科学だという批判がアメリカや日本にあるが,当初チェレーンは,〈地理的有機体としての,あるいは空間における現象としての国家に関する学問である。それゆえに国家は国土・版図・領土,あるいは最も特徴あるものとして,すなわちライヒ(国土)である〉とした。換言すれば,“自然的生活空間における政治的生活体の科学”であり,これについて地的覊束(きそく)性と歴史的運動による制限において理解しようとするものだという。「地政学」が擬似科学だというのは,チェレーンの学説がドイツのナチスの国家政策に利用されたこともあって,学問としての客観的科学性の欠落が批判されたことによる。すでにドイツでは政治地理学者マウルが,地政学について〈地理学的方法の応用に基礎をおき,応用科学であり,応用政治地理学に他ならない〉(1925)とし,「地理学」と「政治学」の中間に位置する学問だとされてきた。現在,「地政学」はアメリカでの研究が多く,その定義は〈地理学と政治学を結合した学問で,地理学を基礎に世界における国家の政治的地位を研究する〉(ノリス=ハーリング,1980)とされている。日本でも〈国家政策の背景の一つとしての地理的要因についての研究である〉(横山,1984)と見ている。【地政学の源流】ドイツの地理学者ラッツェル(1844〜1904)は「政治地理学」の祖といわれているが,その所論は国家有機体説であった。つまり,ダーウィン理論を導入して民族の力は空間(ラウム)との関係の上に依存していることを強調した。つまり空間は,自然地理的概念以上のもので,“成長と拡大”を遂げるための空間であり,政治的パワーだと見た。この考えは地理的環境決定論によるものだが,民族や国民に対して生活空間の確立は理念的条件として,また強い空想観を与えるものと評価された。ラッツェルの所論はスウェーデンのチェレーンが導入した。当時のスウェーデンは,帝政ロシアの不凍港を求めての領土拡張とヨーロッパの国際関係におけるスカンジナビア半島の政治的不安定さのなかにあった。彼は,スウェーデンの将来を空間的意識の発展のもとで,多分ドイツと結びつくであろうと論じたが,その論拠をラッツェルの国家有機体説に求めた。つまり,生命のある国家は植民地の確保・領土の併合・同盟などによって空間の拡大をしなければならないとし,国家が世界勢力に対応する要求として,[1]国家は広大であるべきで,[2]国家は勢力を保つために内部結合をすべきで,[3]大国は移動の自由をもたなければならないと考えた。この考えは理論的なものでなく,むしろ極めて実際的なものとして,とくにドイツに受け入れられることとなった。第一次世界大戦がおこったとき,チェレーンは戦争を主張せず,ドイツの勢力拡大を恐れてスウェーデン−ドイツ同盟より,スカンジナビアブロックの形成を主張したほどであった。
【ドイツ地政学の盛衰】チェレーンが論じた国家の世界勢力への対応の三つの要求は,第一次世界大戦前のドイツを例に見たときそのすべてが欠けており,チェレーンはドイツは大国になり得ないと批評した。この考えは,第一次世界大戦の復興期のドイツに導入され,ドイツ地政学として独自の発達をしたが,その主役はハウスホーファー(1869〜1946)であった。彼は南ドイツのミュンヘンで生まれたが,父が工科大学の経済学教授であって,その友人に地理学者のラッッェルがいた。ハウスホーファーは軍人の経験をもち34歳でドイツ戦略アカデミーで教鞭をとり,1908年には駐日ドイツ大使館武官として滞在した。また第一次世界大戦では旅団長となり陸軍少将の地位をも得た。これらの経験が彼のドイツ観を変え,地政学者として登場する背景となった。在日中に日韓合邦(1910)があり,日本の国家的統一性の完全さや,アジア大陸進出政策などに強い興味をもち,とくに戦力を使わずに朝鮮半島を領士化するとともに,移民政策を領土併合に先行させたことに注目し,帰国後に『日本の国情』(1921)や『日本帝国の地理的発展』(1921)などを刊行した。50歳のとき(1919)にミュンヘン大学から政治地理学で博士の学位をとるとともに,同大学に地政学研究所を設立し,「戦争と防衛の地政学」「空間決定論」「国土の優越」などのテーマで講義を行った。とくにチェレーンの造語であったゲオポリティク(地政学)に対して,ドイツ的見解を加えた。それは〈政治地理学は空間の視点から国家をみるが,地政学は国家の視点から空間をみる〉とし,この空間とは彼の父の友人であったラッツェルの唱えた生活空間であり,これがハウスホーファーの「地政学」のキーワードとなった。また彼は,クラウゼヴィッツ Carl Clauswitz(1780〜1831)から戦争分析の手法を,世界的視野に立っての勢力政策(パワーポリティクス)についてはアメリカのマハン(1840〜1914)から海上権力(シーパワー)の理念,そしてイギリスのマッキンダー(1861〜1947)からは世界のハートランド論などを学んだ。そしてミュンヘン大学教授(1921〜1939)の間に,地政学研究所を主宰する一方で月刊「地政学」(1924〜1944)を刊行し,その編集にあたった。著作には『太平洋地政学』(1924)や『国境とその地理学的政治学的意味』(1927)などが有名である。前者は,日本を中心とした自給自足経済圏の形成や日本とドイツとの同盟化を示唆した内容で,後者では国境に政治的境界と軍事的境界があり,拡大する国家は両境界帯に入植者を送り込み,国土化し,軍事的境界はさらに外側へと拡大するとした。この著書はドイツで広く読まれたが,とくに軍部と政治指導者は,彼らの国土拡張と戦争計画にハウスホーファーの論を利用することとなった。雑誌「地政学」は学術誌として,またハウスホーファー学派の中心的存在であったが,その「地政学」が不幸な末路をたどったのはナチス=ドイツとの結合であった。1933年にナチスが主権をとることになって,ハウスホーファーはドイツアカデミー総裁をはじめ在外ドイツ人連盟(VDA)の総裁に推され,地政学は「国家科学」と呼ばれるようになった。そして“戦争”には心理・理念・経済・軍事の四つの局面と,陸上・海上・空中の三つの次元による勢力があるとし,とくにこれらの均衡ある勢力配分は電撃作戦における迅速な活動の戦略的基礎だと論じた。この電撃作戦論は,第一次世界大戦の戦線膠着に対する反省と,生活空間論での民族的情熱を高めることの強調・境界論などによったものである。ハウスホーファーは,かつて第一次世界大戦中に彼の副官で後にナチス副党主となったヘスを通じてヒトラー(1889〜1945)と出会ったが,ヒトラーの著書『わが闘争』(1925)にはハウスホーファーの生活空間論の影響と見られる1章が登場した。ナチスの活動とドイツ地政学との関係は密接になり,その征服理念に対する知的背景,“科学的”根拠を与えることとなった。ハウスホーファーの妻はユダヤ人の血をひいていたため,ヒトラー政権との直接の接触は阻止され,また彼の息子でベルリン大学で「政治地理学」を講じていたアルブレヒトは,ヒトラー暗殺未遂事件に関与したため投獄され,1945年にベルリンの街路でゲシュタポによって殺された。戦後,ハウスホーファー自身は,ナチスが彼の見解をゆがめたと批判したが,1946年に夫妻はババリアの別荘で自殺した。第二次世界大戦後のドイツでは,ナチズムへの激しい批判とともにハウスホーファー地政学への訣別がおこった。「政治地理学」でさえ新しく「社会地理学」としての見直し論があり,国家の空間体系の研究に,かつての「地政学」への反省に立って新たな刺激となることが期待されている。
【アメリカとイギリスの地政学】ゲオポリティク(地政学)がアメリカに登場したのは1941年で,ナチスの科学の紹介に伴ったものであった。これより先ラッツェルの政治地理学の所論は紹介され,これを支持する研究はあった。イギリスでも同様で,ハウスホーファーの地政学ではなく,ゲオポリティクに関する論文はむしろ第二次世界大戦後に独自の立場から登場することとなった。この両国では,「地政学」というより,ハウスホーファーにも影響を与えたと思われる世界の勢力政策(パワーポリティックス)に関する理論が登場し,現在ではすでに古典的とされるこれらが高く評価されていることに特色がある。パワーポリティクスを世界的尺度から論じた最初はドイツのクラウゼヴィッツで,戦略家であった彼は戦争の分析手法と陸上勢力(ランドパワー)論を展開した。これに対してアメリカのマハンは,その著作『海上権力の歴史に及ぼした影響,1660〜1783』(1890)で海洋勢力(シーパワー)論で有名となった。彼はアメリカ海軍大学長や歴史学会長を歴任し,海軍少将でもあったが,このシーパワー論は,イギリス・ドイツ・日本など外国で広く読まれた。当時は,ランドパワーに各国とも関心が強かったが,マハンはアジアにおけるロシアの領土拡張と中国へのコントロールは,アメリカ・イギリス・ドイツ・日本に共通した利害関係のあること,アメリカの孤立主義に対する海軍拡張による海外膨張の利益を論じたもので,とくに太平洋とカリブ海地域の重要性を主張した。さらに『海上権力におけるアメリカの利害』(1897)は,世界的な海軍力競争を引き起こすもととなった。マハンの所論は,世界でも最初の地政学的見地を示したものだという評価がアメリカにあり,今日のソビエト海軍力の増大はマハンに沿ったものだという見方もある。ただ,アメリカのその後の軍事・外交政策からみると,膨張主義者としての批判も登場した。歴史的にみると,マハンに続く古典的ワールドポリティクスでの有名な所論は,イギリスのマッキンダーのハートランド論である。彼は,オックスフォード大学で「自然科学」を学び,とくに「自然地理学」に強い関心をもった。同大学地理学科の教授になり,後にロンドン大学の政治経済学部長・下院議員・王立海運会社総裁なども歴任した。「地理学」を講じてきたものの,とくに『イギリスとイギリスの海』(1902),『デモクラシーの理念と現実』(1919)などの著書でイギリス政治地理学の祖とさえ言われた。ハートランド論の登場は「歴史の地理学的枢軸」(1904)で,“ハートランド”の語はこの論文で一回しか登場しなかったが,1919年の著書では〈東欧を支配する者はハートランドを制し,ハートランドを支配する者は世界島を制し,世界島を支配する者は世界を制す〉と述べ,結論的な見解を示した。彼は,マハンのシーパワー論にも示唆を受けたものの,むしろユーラシア大陸における陸上勢力と,イギリス発展の舞台である海洋勢力との角逐に強い関心をもっていた。最初の論文で指摘した枢軸地域とは,ヨーロッパ=ロシアを中心にしたロシア支配地域で,とくに中央アジアが世界の歴史を回転させてきた舞台であり,その地理的環境から周辺の西ヨーロッパや東アジアからの支配勢力が進出しがたいところだとした。これが後にハートランド(心臓島)と改称され,またワールドアイランド(世界島)とはユーラシア大陸にアフリカを加えた地域で,ハートランドはその中央部に位置する。マッキンダーは,コロンブス時代の地理的探検に理念的背景を求め,「地理学」をして世界情勢についての知的冒険の焦点においたのであった。また彼自身は,ハートランド観をして地政学的見解ということばでは表現していなかった。時代的背景からすると,イギリスをはじめ資本主義経済の発展に伴う国家勢力の拡張と分割を見ていたときで,彼は西欧世界の自由を保護するために地球的な均衡を考えたと言える。そして,ハートランド(ロシア支配地域)の拡大に対して海洋勢力をもってチェックするという思想を表現したのであった。枢軸地域の支配権を握ることが必然的に世界支配に対して絶対的な地理的優位性を確立するという考え方は,とりもなおさず地理的環境決定論に基礎をおいたものだった。しかしながら,マッキンダーの地球の見方は再びアメリカに引き継がれることとなった。それは,海洋勢力・空軍力・陸上勢力などについての戦略観としての登場であった。
スピックマン(1893〜1943)は,アムステルダムに生まれ,ジャーナリストとしてアジアやオーストラリアを訪れたが,後にカリフォルニア大学バークレー校で博士号を取得し,同大学の「政治学」・「社会学」の講師を経て,1925年にエール大学に移り国際関係学科の主任教授を歴任した。『世界政治におけるアメリカの戦略』(1942)・『平和の地理学』(1944)などを著したが,その戦略観はマッキンダーの“東欧は一つの国による支配を許さない”という見方に賛成はしたものの,ユーラシア=アフリカの世界島による世界支配の考えには,半球をもって東半球を包囲するという見解を示した。それは,マッキンダーのいうハートランド周辺地域をリムランド(縁辺地域)と改称し,世界の現実の勢力はハートランドを基礎にしているのではなくリムランドにあるとした。事実,リムランドは中東の石油をはじめ,資源や人口が世界で最も多い地域であり,歴史的にもリムランドは,ハートランドとイギリス・日本など海洋島勢力との緩衝地帯となってきたと見ている。この見解はモンロー主義をとってきたアメリカの外交政策に影響を及ぼした。マッキンダーの地球戦略観に対しては,〈リムランドを制する者はユーラシアを支配し,ユーラシアを制する者は世界の運命を支配する〉と言った。空軍力からみた地球の戦略観を展開したのはセバスキー(1894〜1976)であった。彼は帝政ロシアの海軍武官で1918年にロシア空軍使節団員として訪米してから,1927年にアメリカ市民権をとり,制空権を支配することなくして陸上・海洋勢力の支配は困難なことを主張した。それは空軍孤立主義ともいうべき考えで,とくにユーラシアと西半球の主要地域は北極圏をもって対峙していることを所論の根拠とした。そして,アメリカは空軍力の優勢をはかることで,海外基地や同盟国はいらないと述べた。この制空権優位の地球観は,その後のベトナム戦争におけるアメリカの撤退の例のように,必ずしも現実的ではないという批判がある。
【日本の地政学】チェレーンの著作が日本に紹介された最初は,『生活形態としての国家』が藤沢親雄によって1925年(大正14)に「国際法外交雑誌」24・2に紹介され,その全訳は阿部市五郎が1936年(昭和11)に刊行した。また,ドイツ地政学の創始者であるハウスホーファーの『太平洋の地政学』は1940年(昭和15)に服田彰造により全訳出版され,マハンの『海上権力の歴史に及ぼした影響』は1897年(明治30)に水交社から訳出された。しかし,日本における「地政学」の発展にはチェレーンならびにドイツの影響が大きかった。それは,ハウスホーファーが日本の対アジア政策に感銘して,ドイツの国土拡張に理念的背景を与えたことと裏返しに,ドイツ陸軍を範にした日本ではアジア大陸への進出や大東亜共栄圏の確立思想に奉仕する結果となった。「地政学」に対する科学的論争は,昭和初期に政治地理学者の間でおこり,「地政学」はその応用部門だとする見解が示される一方では,1930年代の後半に入って日本地政学や東亜地政学が台頭し,ついで1940年には日本地政学宣言が京都大学小牧実繁教授によって行われ,翌年には地理学・政治学・歴史学などの著名な学者や政治家が参画して日本地政学協会が設立された。この日本地政学の思想は,ドイツ地政学の輸入から脱皮して東洋的世界観を背景に皇道思想を理念とするものに変わった。しかし,第二次世界大戦の終結によってドイツのそれと同じような結果を招いたことは当然のことであった。戦後は,地政学者はもちろん政治地理学者までが占領下に公職追放を受けたことは,むしろ政治地理学にとって悲運ともいうべきものとなった。
【最近の地政学】地政学史をみると,「地政学」や戦略観が研究者の自国の国際的地位や立場を背景に発達してきたことに特色がある。確かに,マッキンダーやスピックマンの地球的規模での所論は,一般的に広く受け入れられるものとして評価されるが,それはまた当時の勢力政策から見た世界に対する認知空間の変化を示すものでもあったし,とくに第二次世界大戦後に地政学がアメリカで多く論じられるようになったのは,国際関係における同国の軍事的・経済的・政治的優位を背景としたものである。「地政学」がそれぞれの国の外交政策とかかわりをもつ必然性は払拭することはできない。しかし,最近のアメリカでは「地政学」が擬似科学だとする批判に対して理論的枠組みを確立しようとする努力もある。ニューヨーク市大教授のコーエン(1925〜)は,「政治地理学」の側から世界の地戦略的地域を設定した。この基礎となった「地政学」モデルは,国家は多様な文化的利害や資源分布の不均衡などから,その民族的自己保存は最も近接した地域間協力と地球的な相互依存の促進にあると考えて,平衡理論を導き出した。そして従来の海洋と陸上の勢力からみた地球観でもなく,アメリカの絶対的優位ではない現代世界を10地域から成ると区分した。このほかにマッコール(1938〜 )は,現代の軍事技術のもとでは伝統的地政学モデルに限界があるとし,国際紛争の要因分析を通して行動モデルの研究を進めている。日本では,1970年代に入って「地政学」をタイトルにした国際関係の動向と日本の戦略的立場についての著作が多くなった。これらに共通することは,戦前の日本地政学への反省や欧米の古典的地政学の再評価などを十分にしないで,地政学復活への道を歩んでいることである。アメリカ地政学を代表する一人のコーエンは,政治地理学の側から,「地政学」を全地球的体系における国家のあり方や地政学的地域の設定に努めているが,日本地政学の現状は,いぜんとして国家や民族の生存についての戦略上の地理的要因を重視し軍事戦略を前提とした論調に傾いている。
〔参考文献〕ジャクソン,W. A. D., 横山昭市訳『政治地理学』1979,大明堂
曽村保信『地政学入門』1984,中公新書
横山昭市『地政学−日本と欧米の論調』地理,29―3,1984