●治水(日本) ちすい
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戦国期には,広い領域を単位とする各地域での戦国大名の出現とともに,また治水技術の著しく発展した時代でもある。ヨーロッパ伝来のもの,軍陣に際しての攻城野戦の技術も加わって,各地に河川を制御する治水技術の発展を見,主要なものに甲州流・美濃流・上方流・関東流・紀州流などのそれぞれ特色のある技術の発達を見た。なかでも幕府の主に採用したのは関東流(伊奈流)・紀州流である。甲州流は武田信玄が甲府盆地を流れる釜無・笛吹の二川の,川底が石と砂から成る急流の洪水を制するために工夫した方法で,今も竜王近くの釜無川畔に痕跡を残す霞堤は著名であり,本堤と控え堤の二段構えのものである。甲州以外にも武田領であった東山・東海の荒れ河にもこの流の堤が施工されたといわれる。加藤清正が肥後で行った治水も菊池川や緑川に見られ,上流部をほかの川に付け替える瀬替え,中流部に遊水池をつくっての流量の調節,下流部に乗越堤をつくっての水害の緩和など,ほかに白川下流と坪井川の合流点につくった石塘なども著名で,朝鮮の禿山から急に平野に流下する諸河川の洪水制御を応用したものと菊地利夫氏は解している。佐賀藩の著名な成富兵庫茂安は,筑後川に千栗堤を築き,有明海の干拓に大土居を築造し,高知藩の野中兼山は,領内幾多の河川に用水引用施設として多数の井堰を築造するとともに,物部川下流に,一堰から両岸に引用する水路をつくり,「合口」の先駆をなし遂げている。仙台藩の川村重吉は,キリシタンの技術で追波湾に注いでいた北上川を今の石巻湾に注がせて北上川の洪水調節に成功し,河道の修正・堤防の築造をも行って,北上川流域の低湿地の新田化に成功した。美濃流は木曽・長良・揖斐の三川流域地方に発達したもので,後述する伊奈氏が,美濃郡代支配下の技術者群の技術を総合したもの。上方流は,古くからの古墳築造や溜池築造,加茂川の治水などに用いられていたものをさす。豊臣秀吉が晩年に桃山城を築くに際して,宇治川が宇治から直に西流して,いったん巨椋(おぐら)池に注ぎ,淀の近くで淀川に注いでいたのを北西につけ替えて現在の宇治川の流路に変えて城の濠とし,流れの南側に大築堤を行って巨椋池と遮断し,いわゆる「太閤堤」の大築堤工事を行ったのも,一つの治水事業とも考え得よう。宇治川の西北方面の迂回工事以前においては,琵琶湖一円からの出水の度ごと,巨椋池周辺一帯は水災の常習地であったからである。伊奈流(関東流)の技術は甲州流に発し,初代忠次以後5代目までは代々名手が出て関東郡代を任とした(初代忠次は1万3,000石を領する大名にまでなったが,後,幾戸かの旗本に分家した)。伊奈流による工事はまず江戸膝元の関東に始まり,1609年(慶長14)の尾張木曽川筋の左岸に,犬山から下流へ延長12里の大堤防を築いて右岸の美濃側よりも3尺高く,親藩尾張の平野を護った大堤防,いわゆる「御圍堤」の築造は,忠次の指揮下に,美濃郡代配下の技術者の技術の参加したものである。次いで1654年(承応3)に,もと江戸川筋に注いでいた利根川本流を,上総台地の一部を切開して東遷させ,現在の利根川筋に固定させた大工事とその築堤は最大のもので,約数十年を要して完成したとされている。関東流の工法の特徴は,川幅を広くし,堤外地を流作場として広く残し,また遊水池を各所につくった。広くみれば手賀沼・印旛沼・霞ケ浦さえも遊水地であり,今日東北本線の車中からもその痕跡は幾つか認められ,江戸後期の「地方学者」のなかには,これらを整理すれば約百万石の新耕地を得べしと説いている者さえ見られる。鬼怒川・小貝川の合流点に近い牛久沼もその一例である。のちに遊水池の干拓も一時行われたが中途から禁止措置が取られている。江戸後期の治水は,幕府・大諸侯・大町人の手で行われるようになった大新田造成の前提として行われるようになる大河川の治水・沼沢地の干拓を中心に,元禄から享保にかけて大きく変化する。元禄から宝永にかけて行われた,もと生駒山系南部の峡谷を出ると,急に北流してほぼ生駒山麓に沿い深野池を経,もと大坂市中で淀川に合流していた大和川の付替工事(旧堺市域の北で海に注がせる)はその最大のもので,旧河川敷の町人請負新田化の開発利益と,河川敷の短縮が主目的で,費用は約半額が幕府(公儀)の支出,半額は近畿の諸大名による「御手伝」であった。このような時代に登用・採用されたのが紀州流である。その開祖というべき伊沢弥三兵衛為永は紀北の産,溜池築造などの技術で紀州家藩主当時の吉宗に認められて郷士から藩臣となり,吉宗の将軍就任とともに重要視され,のちに勘定吟味役・新田開発奉行となって吉宗時代の治水・土木技術の代表者となり,前述伊奈家のそれにとって代わるに至る。伊沢の手にかかった主な事業としては,利根川から直接引水し,見沼を干拓する見沼代用水路の掘鑿(流末は江戸市街の西北郊に達する),中川の開鑿,木曽川筋油島の締切(のちの薩摩藩の御手伝普請として知られる木曽・長良・揖斐三川分流工事に先駆けた工事の一部の完成),越後紫雲寺潟・福島潟の干拓(ともに雨期の湛水で周辺一帯を苦しめていた),近江国湖畔の干拓,下総手賀沼の干拓などに画期ともいえる成果を収めた。治水と開墾とが密接に結合しているのが彼の事業の特色である。1738年(元文3)に死亡。紀州流治水技術の特色は,伊奈流が「一里四十八曲り」の語のように,河川を蛇行させ,曲り目に流水を停滞させながら漸次流下させ,中流部では乗越堤をところどころにかけて洪水を静かに溢れさせ,本堤の外側に控え堤(二重堤)を設けて本田を守る方法を採ったのに対して,紀州流は蛇行する河川を直流として固定し,かつての沿側の遊水池を干拓して水田化し,流作場を年貢地とし,乱流していた平野の河流を整理し,そのために川の両岸の乗越堤を止め,上流部から下流部まで連続した長大な高堤によって,洪水を一挙に海中にすばやく流し去る工法である。したがって堤は高く堅固で,一層堅固にするために堤の内外に一段低い「犬走り」をつくり,水勢の中心が堤に当たらぬようさまざまの水制工を使った。「犬走り」のことを「二重堤」と呼んでいる「地方書」もある。また海水が河底を遡るいわゆる「感応川」には,床上堰をつくって塩水の遡上を阻止した。しかし高い堤防に囲まれて直流して海に注ぐ河川となった紀川流では,河床に土砂が滞留して床が高くなり「天井川」と化し,住民は年とともにより高く堤を嵩上げする必要もあった。明治20年代,治水の先進国オランダの技師を招き,ようやくに「濃尾三川」の分流工事を一応完成し得たのは,日本古来の治水技術の限界を物語る事実であろう。