●地図(歴史) ちず
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文字や筆記用具をもたない人間集団の場合でも,自己の生活空間や交渉空間に関する知識はきわめて詳細かつ豊富である。ことに衣食住の生活資材が求められる地点やそこまでのルート,途中の難所などに関する知識,海洋を生活舞台とする場合は島・潮流・海流・海岸線などについて詳細を極めた知識を有し,関係位置まで正確に指摘するほどである。ときに崖や岩まどにそれを刻み砂浜に描き,貝殻・小石・草木などで海図をつくるなどの事例が世界各地から報告されている。地図はこれらの空間に関する知識を表現したもので,文字使用よりも古くから描かれて来たわけである。国家が形成されると領域支配のためには地図が不可欠であるから,古代からさまざまな地図が作製されたと見られるが,古代河川文明の中心地域に関する古地図も現存するものはまことに乏しい。古地図研究も偶然残された時代ごとの世界図などが主要であって,地籍図・村絵図・都市図など小面積の地表空間に関しては,研究対象となる時代が制限されがちである。いわゆる「大航海時代」以前は,地表も数個の「世界」に分断されており,相互の交流が乏しかったから地図の歴史もそれぞれに異なっている。古代・中世の地図については各文明圏単位で研究され,これら相互の比較研究からは,各々の測量技術や作図方法および世界観などが究明されている【古代・中世の地図】[1]オリエント文明圏 古代文明の代表と認められるエジプトやバビロニアの場合,課税対象となる耕地が年々の周期的洪水のため境界が不明になるから,その後の耕地境界画定のために古くから耕地測量が実施されてきたし,灌漑用水路の建設・維持の目的からも測量技術が重視されたと見られる。土地測量の結果を図示したいわゆる「地籍図」も数多く作製されたとしてよい。バビロニアでは粘土板に記した地籍図・市街図・世界図などの断片が発掘されており,そのなかの最古のものは地籍図(前2500年ごろ)で,楔形文字で「アザラの耕地」と記された山間の小盆地が示され,灌漑水路や小集落と判定できるものが図示してある。「世界図」と見るべきものは,アッカドのサルゴン大王遠征を記す粘土板の一部(前700年ごろ)で,円と直線の組合せの単純な図である。この世界図から見ると,バビロニア人は大地は平坦な円形でその周囲を「にがい河」つまり海で囲まれ,大地の中心が首都バビロンと見ていたと認められる。ユーフラテス川は,山地から流れ出し三日月形の湾内に注ぐが,下流部には湿地が描かれ,バビロンの周囲には小さな円や楕円でその他の都市が示されている。エジプトの場合,地図がパピルスに記されたからか,現存する唯一の地図はヌビアの金山図(前1300年ごろ)だけである。この図も断片であるが,金山・三本の道路・中央広場(貯水地や石碑がある)・神殿・坑夫小屋などが記されている。[2]ギリシア・ローマ文明圏 オリエント・ペルシア文明の影響を受けた古代ギリシアも,前7世紀ごろから自然科学が独自の発展を示し,アナクシマンドロス,ヘカタイオスなどが世界図を作製し,銅版の世界図もあったと伝えられるが現存していない。前4世紀にはアリストテレスによって地球が球体であることが実証され,前3世紀になるとエラトステネスは地球の大きさを測定するなど,古代ギリシア地理学のめざましい発展をみた。ことにエラトステネスは地理書・世界図を著したことで知られるが,いずれも早く失われてしまった。古典古代ローマはヘレニズム文明を祖述したにすぎないとされるが,その領域はオリエントからゲルマニア・大ブリテン島までの広範囲を占め,モンスーン利用の航海は紅海からインド洋を経てインドに達し,東アジア産の絹まで中央アジア経由で送られて来たから,その地理的知識も著しく拡大した。その結果ストラボン・プトレマイオスなどギリシア系学者によってローマ時代の地理学の発展もめざましく,ことにプトレマイオスの「地理書」8巻(12世紀ごろのビザンツ写本が現存)には,経緯度を記した円錐図法による半球図が含まれている。これが世界図を投影図法によって作製した最古のもので,近代地図の作図法の先駆とされている。ただし各地の緯度はともかく経度測定には誤差が多く,赤道以南のアフリカ・北ヨーロッパ・東アジアなどはともにテラ=インコグニタ(未知の土地)であった。「ギリシア人は星で地を測り,ローマ人は里程標でそれを測った」というが,広大な領域支配のため首都ローマまたはコンスタンチノポリス(現イスタンブル)を中心にローマ道路網を整備し,駅逓制の徹底・里程標設置を実現した結果,古代ローマ帝国の全領域にわたるルートマップが作製された。4世紀ごろ完成というその原図は現存しないが,中世になってそれを忠実に模したと見られる「ポイティンガー図」(16世紀アウグスブルクの蒐集家ポイティンガー所蔵からこの名称がある)が現存する。長さ約7m・幅30cmのこの図は,ローマを中心にアジア西部・北アフリカにも及ぶ主要道路網や都市・宿駅・軍団の配置と里程を図示したもので,実用を主眼としたから地形・方位・位置などはまったく便宜的とされている。[3]東アジア文明圏 井田法などからうかがえるように,中国では古来さまざまな地図が作製されたとみられるが,現存する最古の地図も11世紀以前のものはない。晋の斐秀(はいしゅう,224〜271)は漢代までの地図の欠点を是正し,分率(縮尺の比率)・準望(方位)・道里(距離)・高下(高低)・方邪(直角・斜角)・迂直(曲線・直線)など作図上の六原則のもとに「禹貢地域図」を著したが,これは現存していない。ついで801年(唐の貞元17)に賈耽が「海内華夷図」(約9m ×10m・縮尺約150万分の1の方格図)を著したというがこれも失われてしまった。現存の最古の地図は西安の碑林(現在は西安市博物館)にある「禹跡図」(石碑に刻まれた方格図)で,斐秀以来の図法が継承され,方位・縮尺・距離などほぼ正しく表されているから,海岸線・河道の屈曲なども実際に近似的である。古代中国地図の特色は方100里を単位とする方格図にあるが,中世以降は従前からのものを不十分に模写し,それに当時の地名などを書き加えるだけになってしまう。[4]中世の地図 中世西洋は古典古代からの諸科学に代わって,キリスト教神学専一となってしまったから,地図もまたその教義に反するものはすべて否定され,いわゆる「TO地図」が主力となり,古代にバビロニアの世界図よりもさらに単純な図式図が少なからず現存する。TO図のOは世界の大地を取り囲むオケアノス(大洋)で,陸地はアジア・アフリカ・ヨーロッパに三分し,楽園のあるアジアつまり東が図示の上部を占め,三大陸を分割する横画はタイナス(現在のドン川)とナイル川,縦画は地中海を表し,中心が聖地イェルサレムとなっている。西欧中世の世界図の一種に「マッパ・ムンディ」と呼ばれるものもある。現存する代表的なものはイギリスのヘレフォード聖堂所蔵の「ヘレフォード図」で,図式はTO図に類似するが,古典古代ローマのルートマップ(アグリッパ世界図)をも参照した跡がうかがえる。7〜8世紀,イベリア半島から北アフリカ・西アジアさらにインドをも含む広大な地表空間に拡大したイスラーム文明圏では,古代ヘレニズムの文化遺産を積極的に摂取し,古代インド科学をも受容してイスラーム科学が発展した。ことにメッカ巡礼・内陸アジアの隊商・インド洋から南シナ海にも及ぶ海上交通など,交通路や交通施設の整備のためにも正確な地理的知識の必要が大きく,地理学の発展に拍車をかけた。注目されるのは9世紀における緯度1度にあたる子午線測定・天文台建設・多くの地理書・旅行記の著述であるが,ことに12世紀シチリア島でアル・イドリーシーが銀板に刻んでノルマン王ロジェルIIに献上した世界図(一般に「ロジェル王の書の世界図」と呼び1154年完成)が著名である。その写図が現存するばかりか,1592年にはこの図の最初の印刷がローマでなされてもいる。プトレマイオスの世界図とイドリーシーのそれと比較すると,北西ヨーロッパから東南アジアの半島や島々,さらにシン(中国)・シラ(新羅?)・ワクワク(倭?)まで図示され,旧大陸の大半が含まれるほどに世界知識が拡大したと認められる。中世後半13,14世紀になると,航海のために「ポルトラノ」と略称される海図が利用されるようになる。ヨーロッパからオリエントに向かう十字軍の度重なる遠征が地中海交通を発展させる契機となり,海上交通のためめ必需品として羅針盤と海図が要求されたからで,現存の最古のポルトラノ海図は「ピサ図」であるが,この種の海図の特色は,海岸線や港が記入された図の外周などに多数の方位盤が示され,それが放射状の方位線がさまざまな角度で網状に記されていることにある。これら方位線を基準にすれば,ある港から他の港への航路の舵角(方角)を知ることができる。つまりポルトラノ海図と羅針盤を併用すると,旧来の沿岸航路を離れた外洋航海が可能となり,それに天測による位置把握が加えられると外洋への進出がより一層確実になるから,帆船利用の航海技術が飛躍的に発展する契機ともなった。ただし,図上の諸地点の位置は天文学的な経緯度によるわけではなく,経験による推定からの相対的な位置であって,なお中世的性格の地図というほかない。だがメルカトル図法の海図が普及するまでは,ポルトラノ型海図がよく利用され,いわゆる「大航海時代」にはアメリカ・インド・東南アジアなどの海域を図示するものが多くつくられ,日本の御朱印船も,伝来のこの種の海図を利用したのである。中世後半になると,ポルトラノ図をもとにマルコ=ポーロの旅行図などからの新知見を含めた世界図も作製されている。その代表は「カタロニア図」(1385年バルセロナでアグラハム=クレスケス作製)や,フラ=マウロの世界図(1459年ヴェネチア)などであるが,ともに西欧中世的世界観から脱却したものではなく,装飾的色彩が濃厚である。いわゆる「大航海時代」は,イスラーム文明圏とラテン文明圏が交錯するイベリア半島の航海者たちの手で開幕され,新大陸・太平洋・東アジアに関する新知見が西欧社会へもたらされ,航海者たちの報告には「発見」した地域の海図を伴うことも通例であったが,それらの知見を集大成した地球大の世界図が出現するのはやや後の時代になってからである。「大航海時代」開幕と前後するルネサンス期になって,古代のプトレマイオスの地理書・地図のラテン語訳(1406年,ヤコブス=アンゲルス)が実現し,グーテンベルクの活字印刷術(1445年発明)からは,これが広く流布するにいたった。しかもその地図は「新図」と称するように,地理的知識や地理的「発見」の新知見を加えた改訂・増補されたものが多く,西欧では最初の地球儀(1492年,マルチン=ベハイム製作)も出現するにいたった。つまり地球を球体と認め,経緯度による位置確定方式の復活である。なかでもコロンブスの西航計画を確信させたイタリアのトスカネリの地図は,プトレマイオス理論による代表例としてよい。
【近代以降の地図】大航海時代から17世紀半ばまでは,南北アメリカの外周を把握する「地理的発見」の時代とされ,18世紀にはそれが南太平洋にも及んでいるが,地図作製との視点からみると,近代世界図作製は16,17世紀オランダにおいて基礎がおかれ,地形図・地勢図のそれは,17〜18世紀にわたるフランスの子午線測量が出発点である。[1]世界図・世界地図帳 16世紀になると,西欧社会が有する世界の地理的知識が著しく豊富になり,銅版彫刻による発達が伴って精密な地図印刷が容易になり,壁掛け用の大型世界図や多くの地図を一冊にまとめた地図帳が続出するようになるが,その中心はオランダであった。1580年の独立以後アジア貿易に進出したこの国は,ポルトガルに代わって東洋貿易を独占するが,その経済的繁栄と外洋航海用海図に対する需要とが,メルカトル・オルテリウス・ブラウ,その他の地図作製・印刷・出版の背景である。世界地図帳の最古のものは,地図作製・出版者オルテリウスによる「地球の舞台」(1570年,53図幅70図)で,これに次ぐのはメルカトル父子の「アトラス」(1585〜1595年,107図)である。いずれも,出版後は版を重ね増補・訂正版もあり,ラテン語版のほか各国語版もある。さらにブラウ一族も「新地図帳」(1655年,6巻)や「大地図帳」(1662年,13巻)などを出版し,まさにオランダ地図の黄金時代となった。メルカトルは地図帳完成に先駆け「航海用に最適の新世界全図」(1569年,1.32×1.98m)を公にしたが,これこそ正角円筒図法による世界図で,方位線と経線とをなす角がつねに正しい舵角を示すものである。ただし当時は積分法も未知のため,赤道からの緯線距離の算出は近似値しか求められなかったが,これを解決したのはイギリスのエドワード=ライト(1599年,積分法による緯線距離式と数表)であって,それ以来メルカトル円筒図法が広く利用されるに至った。19世紀初頭になると極地以外は世界の海岸線はほぼ明らかになったものの,大陸内部にはまだ不分明な空間が残っていたが,20世紀初頭までにはそれも解明され,国際的協力のもとに作製された100万分の1国際図(IMW)や国際民間航空図(WAC)などがあり,各国政府によるナショナルアトラス(国勢地図帳)も豊富になっている。[2]地形図・地勢図 地球表面の緯度1度の距離が赤道から極に向かうとともに増すという理論は,ニュートンやホイヘンスらによって主張されたが,これが実証されたのは1735,1736年のフランス学士院によるペルーおよびラプラント調査結果であり,それ以前フランスでは首都パリを通る子午線測量を1683〜1718年にわたって実施した。これが近代三角測量による地形図作製を実現する契機である。フランス全土に関する8.64万分の1地形図作製は1747年から着手され,その完成は1818年(全国で180図幅)である。この地形図はカッシニ一族が四代にわたって作製したから「カッシニ図」ともいう。19世紀になると,西欧各国はフランスに範を求めて国営の地形図作製を着手するに至ったが,イギリスの場合,大ブリテン島の三角測量は1825年にほぼ完成し,イングランドとウェールズでは,1マイル1インチ(63.360分の1)アイルランドは1マイル6インチ(10.560分の1)の地形図が作製され,さらに1マイル25インチ(約2,500分の1)の地籍図もつくられている。
【日本の地図の歴史】古代から日本でも中央集権的な律令体制下では,全国図・国郡図や地籍田と見るべき「田図」などが作製されたことは疑問の余地もないが,これらの古地図で現存するものは極めて乏しい。一般的にみると日本における地図の歩みは,南蛮人との交流や江戸幕府選国絵図の編集あるいは検地その他の目的で作製の村絵図など,いずれも16世紀を画期とするものである。[1]古代・中世 現存の日本最古の地図は正倉院所蔵の東大寺初期荘園関係の「開田図」であって,これにより,班田・条里制などのに関する「田図」がどのようなものか推測されている。中世の荘園盛行期には有力寺社・公卿貴族・地方豪族などの所領に関する荘園図が作製され,それらの現存する図幅は,一般に方格図法により,荘園や村落の境界・用水路・集落,あるいは荘官や在家の位置などが絵画的に描写されている。全国図はいわゆる「行基図」で現存の最古の写本は鎌倉期のものとされている。京都のある山域を中心として,それから五畿七道への交通路が延長する図柄からみて,原図作製は平安前期かと推測され,江戸期の写本にも805年(延暦24)改定と記すものがある。[2]近世 16世紀に入って南蛮人が渡来した結果,「扶桑(日本)・唐・天竺(インド)」に限定された旧来の世界知識が一変するが,地図から見るとその一つはポルトラノ海図入手による東南アジアへの進出で,第二としては舶来の世界図を日本絵師が模写して屏風仕立にした装飾的な世界図の盛行である。屏風仕立は行基図を模写した日本図とともに一双とされ,南蛮趣味を好んだ大名・豪商に求められたから,現存するものが少なくない。一方,江戸幕府は全国統治のため1605年(慶長10)諸大名に国絵図作製を命じ,それらを集成して日本図をつくったが,この原図は現存しないが,国絵図は10国分が現存し,慶長日本図の写本も現存する。幕府はさらに寛永・正保・元禄・天保の各期にも国絵図の作製を命じ,天保期以外はそれぞれ日本図も編集している。これら国絵図には村単位の地名・石高・所領・主要交通路・河川・山などが記入され,なお絵画的要素も含まれているが,縮尺・方位・距離関係まで順次統一的表現となっている。近世日本は一種の大開拓期とも見られている。そのためか検地や国替のたびに作製した「村絵図」,開拓前線停滞に伴って多発した境争論関係絵図などは,全国各地に現存するものが多い。内陸の河川舟路は貢米輸送を主眼に開発されたというが,その輸送路保全を主眼とする河川水路図作製も全国的であって,これらのなかには装飾的な絵画仕立のものさえ現存している。また,全国的な商品流通の発展は沿岸航路の開発を背景とするため,水路誌要素を多く記入したいわゆる航路図が作製され,のちには木版刷りの小冊子形態のものさえ生まれている。陸上交通の面では民間でも道中案内記が刊行され,これには宿駅絵図や里程を付記した路線図を付けたものが多い。ことに木版印刷技術の発達は,三都をはじめ城下・名所旧跡などの案内を主とする「町図」なども多く刊行されている。江戸幕府選の日本図とは別に民間でも「本朝図鑑綱目」(1687年刊)や「日本海山潮陸図」(1705年刊),その他の彩色木版図が刊行されたが,これらはいずれも海岸線が不自然で緯線も無記入である。ポルトラノ海図に範をとり,方位線や緯線を入れた日本図は長久保赤水が編集したものが最古のもので,1779年(安永8)「新刻日本輿地路程全図」が刊行されている。衆知の伊能忠敬による全国図は,1800〜1816年(寛政12〜文化13)の13年間にわたる全国各地測量の結果まとめられた結果で,それが幕府天文方によって編集され1821年(文政4)に完成の「大日本実測沿海輿全図」である。一般に「伊能図」といわれ,縮尺により大(214枚)・中(8枚)・小(3枚)の三図が作製されたが,いずれも経線・緯線の間隔は距離に比例し海岸の位置・形状も実測により正確であって,極めて画期的な日本図である。維新以降の政府刊行の日本図なども,全国的な測量完了まではこの伊能図が基礎とされたことを特筆しておく。[3]近代 明治維新以降の日本の地図は,地形図・地勢図が旧陸軍の陸地測量部(現在の国土地理院),海図が旧海軍の水路部,地質図は地質調査所など,いずれも中央官庁が主体となって測量・作図・刊行してきたものである。初期の地形図は「迅速測図」と称し,軍事上の必要から全国の師団所在地を中心に縮尺2万分の1図が作製され,5万分の1地形図が全国的に完成するのは大正期になってからである。初期の20万分の1地勢図は明治期に作製されたが,これはケバ表現で地形や高度に誤りが少なくないが,集落の人口規模までが記入されているため,歴史地理学などでの利用価値は大きい。一方,1873年(明治6)から実施の地租改正にあたっては,全国的に「地籍図」が作製されている。これは字限図・字切図・字図・分間図・字絵図・切図・一筆図・更正図・一町六分之図などさまざまの別称で呼ばれているが,土地台帳・土地登記簿に付属の地図で,局部地区(通常は小字単位)ごとに土地一筆ごとの境界(筆界)と,その番号(地番)地目などが記入され,一般に平板測量によって作製の地図である。明治の地祖改正当時は,近代的な地目変更などはまったく認められなかったから,この地籍図には古代からのその土地の人々の営みの跡が残されていると見ても大差がなく,ことに古代条里制が施行された土地の場合は,この地籍図を利用するだけでも相当程度に条里制復原が可能であり,近世開拓の新田と太閤検地以前からの古田(本田)の別も土地割から判定できるなど,歴史地理学研究上の極めて貴重な資料である。なお明治の地租改正にあたっても,地方によっては360坪を1反とした事例が少なくないことも付言する要があろう。大東亜戦争敗戦後は,旧軍関係の中央機関が改変され,地形測量も航空写真利用が一般化し,地形図作製も機械化されている。そのため一般図も多種で,主題図となっては数えきれないほど多種多様である。日本国勢図(ナショナルアトラス)は,1976年(昭和51)に公刊されたが,その主題図だけでも120種にのぼり,中央・地方の各官庁や研究機関,民間の各企業や個人もまた各種地図の活用が日常的である。
〔参考文献〕秋岡武次郎『日本古地図集成』1971
織田武雄『地図の歴史』1979
桑原公徳『地籍図』1976
川村博忠『江戸幕府選国絵図の研究』1984