●知行合一 ちこうごういつ
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中国,明の哲学者・政治家で,陽明学の始祖である王守仁(王陽明 1472〜1528,成化8〜嘉靖7)のとなえた学説。【王守仁と朱子学】彼は浙江省余姚(よよう)県に生まれ,父は科挙試験の首席合格を果たし,のち南京吏部尚書にのぼった政府高官であった。守仁は性来,熱情的で,青年期には任侠・騎射・詩文・道教・仏教などに次々とひかれ,自らこれを「五溺」と称した。しかし18歳のとき,江西の朱子学者婁一斎(ろういっさい)のもとを訪れ,朱子学を学び始め,以来,朱子学が彼の学問・思想の中心となってきた。しかし学問がすすむほどに,朱子学が彼を満足させなくなった。朱子学の根本原理によれば,人間の心は性と情に分けられるが,理がやどっているのは性のみであるとする,つまり「性即理」であった。そして自己の外にある事物をそれ自体について研究しつくし,事物の理に格(いた)ることで認識が定成する,とみる。ここでの「理」とは「ものをものたらしめている根拠」の意である。これが朱子学の「格物致知(かくぶつちち)」である。ところが守仁はまさにこの格物致知でゆきづまった。庭前の竹を格物しようと試みたが,7日目にノイローゼになってしまった,という(『伝習録』下)。
【龍場の頓悟】彼は1495年(弘治8),28歳で進士に合格し官界にすすんだ。しかし,宦官劉瑾に対する反対運動に参加して投獄され,のち貴州省龍場駅(現在の修文県)の駅丞に左遷された。ここは貴州省の西北にあって徭族や苗族などの,いわゆる少数民族が住む未開の山地であって,赴任してきた彼自身が家を建て,焼き畑をひらいて耕作をする,という有様であった。このような境遇に置かれた彼は,もし聖人であったならどうするであろうかと,石室をこしらえて日夜,静座・瞑想した。ある夜,ついにひらめいた。〈聖人の道は,吾が性,自ら足る。先に理を事事物物に求めしは誤りなり〉と。これが「龍場の頓悟」で,朱子学の「性即理」に代わる新しい原理である「心即理」が生まれた瞬間であった。ときに守仁は37歳。
【格物致知と知行合一】彼のいう「心即理」とは,性と情を合わせた渾然一体である心がそのまま理であって,そしてこのような心をとくに「良知」と名づけた。格物致知については,物を事と解し,事とは自己の主観的意念の発動する事がら,つまり意の存在する所であり,格とは正(ただ)すことである,と解釈した。格物とは,要するに心の不正を正すことである。また,知とは,先にふれた「良知」であって,致知とは,わが心の良知を致すことであり,わが心の良知は天理である,と解釈される。つまり,格物致知とは,個々の事がらの善悪を一つ一つについて判別し,不正を去って善につくことによってわが心の良知を完全に機能させよう,とするものである。ここで,朱子学においては「理」が自己の外にある先験的な存在であるとされる客観的唯心論に立つのに対し,陽明学にあっては「理」を人間の側にひきよせて人間の直観力を重視する主観的唯心論に立つことの対比が明らかにされる。陽明学において,知=心(心は人間を主宰するもの)ととらえれば,つぎの段階では〈知行合一〉というテーゼが成立する。つまり,知が良知であり得るためには,人間のなかにある程度の実践的姿勢が必要であって,知が何らかの実践的契機と結びついて,始めて真に良知たり得る,というのが,「知行合一」の含意である。〈知はこれ行の始め,行はこれ知の成るなり〉(『伝習録』上),〈知の真切篤実の虚,即ちこれ行,行の明覚精察の虚,即ちこれ知,知行の工夫,もと離るべからず〉(『伝習録』中),とある。一般に,陽明学では知行合一→静座→致良知と変化した(教の三変)といわれるが,そのあいだに一貫していたのは「心即理」である。
〔参考文献〕島田虔次『中国に於ける近代思惟の挫折』1949(1970再刊),筑摩書房
岩間一雄『東洋政治思想史研究』1968,未来社
島田虔次『朱子学と陽明学』1967,岩波書店