●筑前 ちくぜん
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つくしのみちのくに。筑紫国が律令時代に入って筑前,筑後に分立する。史料初見は698年(文武2)である。『続日本紀』,『延喜式』によれば,怡土(いと)・志麻・早良(さわら)・那珂(なか)・席田(むしろた)・糟屋(かすや)・宗像(むなかた)・遠賀(おが)・鞍手・嘉麻(かま)・穂浪・夜須・下座・上座(うみつあさくら)・御笠の15郡よりなる。『魏志』の怡土国や奴国の故地で,古来より大陸交渉の拠点であった。527年(継体21)には,筑紫君磐井の反乱があり,宣化朝には那ノ津に官家が置かれた。大宰の初見は,609年(推古17)であるが,律令時代には大宰府が西海道を統轄し外交の折衝の事を司った。国府は御笠郡に設けられていた。1185年(文治1)には,源頼朝は天野遠景を鎮西奉行に任じ,ついで武藤資朝に代わった。併せて同氏に三前一島(のち二島)の守護職を兼ねさせたので,宰府守護所と呼び武藤氏も小貮氏と称した。のちに北条氏は一門も鎮西探題に補したが,足利幕府も先例にならい九州探題を置いた。明応年間(1492〜1500)には大内氏が小貮氏を滅じて筑前を領したが,戦国時代に立花氏が糟屋の立花城によった。秀吉は立花氏を柳川に移し,小早川隆景に当国を与えた。関ケ原戦ののち家康は当国52万3千余石を黒田長政に与えた。そして明治維新の廃藩置県により福岡県,秋月県に分れたが,のち秋月県は福岡県に併せられ,現在にいたっている。