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●筑豊炭田 ちくほうたんでん

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 福岡県北部にあった日本最大の炭田地帯で,それは筑前から豊前にかけての炭田地帯である。「豊前国・筑前国石炭坑業人組合」は炭坑主の組織的交流と利害調整のために設けられた組合であったが,この組合を別に「筑豊石炭坑業組合」と呼び,これがのちに正式名称となっていった。この組合が結成されたのが1886年(明治19)のことであり,“筑豊”という呼称が定着していく画期ともなった。この定着化の過程は日本の産業革命の時期であり,それは石炭を中心に形成された“筑豊地域社会”の確立の時期でもある。筑豊炭田をはじめとして三池炭田,唐津炭田を含む佐賀・長崎の炭田を主体とする九州での石炭産業の形成は,瀬戸内塩田の確立とあいまってのことであり,それは江戸時代後期のことである。十州にまたがる瀬戸内塩田は後背地に製塩燃料としての薪の採取が条件である。ところが筑豊炭田を背後にもつ筑前の津屋崎塩田,勝浦塩田それに豊前の曽根崎塩田で石炭を燃料にする製塩法が開発されるとしだいにその製塩法を瀬戸内十州塩田でもとりいれることとなり,瀬戸内塩田の石炭船は九州の各地の炭田に競い合ってその姿を現すこととなった。瀬戸内塩田での製塩は,江戸時代後期には日本の塩需要量の80〜90パーセントを供給することとなり,それは九州での石炭産業の確立ともなっている。この事情は明治10年代までつづく。筑豊炭田の経営者たちのなかには数多くの〈たぬき掘り〉といわれた小経営のものもあったが,在地資本の御三家といわれたものには松永,麻生,貝島などがある。松永は武士より身をおこし,麻生は豪農・荘屋の出身であった。貝島は炭坑労働者から身をおこし,やがて炭坑小経営者としての炭坑の頭領となり,財をたくわえての炭坑経営者である。筑豊炭田に財閥資本が流入するのは,1900年(明治33)を前後して達成される産業革命期のことである。その財閥資本は三井・三菱それに住友・安田などである。日本の産業革命達成のメルクマールともいわれている八幡製鉄所がその操業を開始するのは1901年(明治34)のことであった。この八幡製鉄所も筑豊炭田を立地条件として設立されていた。鉄鉱石は中国の揚子江流域の最大の鉄山,ターイエ(大治)の鉄鉱石であった。筑豊炭田にはこの八幡製鉄所の直属炭鉱もあった。それは飯塚の中央炭坑,潤野炭坑,高尾炭坑などであった。筑豊炭田と八幡製鉄所をもつ北九州は,石炭と鉄により代表される日本の基幹産業の動脈である。筑豊炭田地帯にはその各所にピラミッドのような三角のボタ山がそびえたち,雨にぬれ自然発火して燃えていた。ボタとは石炭に混っている石や質の悪い石炭のことで,石炭の中から選り出して捨てたものである。このボタ山の形成期は第一次世界大戦のころのことである。この時期の筑豊炭田の炭坑労働者数は20万人近くを数えていた。その3分の1弱である5〜6万人は女坑夫としての女子炭坑労働者である。炭坑での職種は坑内労働では,採炭夫(先山)・支柱夫・後山・運搬夫・機械夫・工作夫・雑夫で,後山は先山の切り出す石炭を天秤棒で荷い,また背中にかかげ,狭い坑道では箱にソリをつけたスラに石炭をいれて四つんばいになって炭車までひきあげていた。この後山の仕事は主に女坑夫たちの仕事であった。一人の先山に一人の後山がついての採炭作業であった。坑外夫としての女坑夫たちは主に選炭作業に従事していた。女坑夫の坑内労働が禁止されるのは1930年(昭和5)のことである。1918年(大正7)の米騒動後には労働運動がさかんになり,1931年の筑豊炭田争議では“モグラ戦術”といわれた地底に座りこむ戦術も採用されていた。また戦時中は朝鮮人労働者を数多く強制連行し強制労働として奴隷労働に服されたことも明記しておかねばならない。この筑豊炭田も1950〜1960年代の石炭から石油へのいわゆるエネルギー革命のもとで一つの炭坑をも残すことなく,筑豊からは炭坑が消えうせていった。

〔参考文献〕新藤東洋男『九州の石炭産業と瀬戸内塩田地帯』1984,「地方史研究」187号

同『筑豊の女坑夫たち』1974,部落問題研究所