●筑後 ちくご
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筑紫国より分かれて筑前,筑後の2国となるのは,おそらく文武朝のころであろう。筑後川流域を中心とした地域。『延喜式』では,御原(みはら),生葉(いくは),竹野,山本,御井(みい),三瀦(みぬま),上妻(かみつま),下妻,山門(やまと),三宅の10郡よりなる。国府は御井郡に置かれた。継体天皇のとき,筑紫君磐井が,物部麁鹿火と最後の決戦を行ったのは御井郡であった。鎌倉時代の初め,草野氏が在国司職に任ぜられたが,やがて大友氏が代わった。南北朝の内乱の時期には,肥後の菊池武光らが,征西将軍官を奉じて,この地の小貮氏を破り,高良山に陣して勢力を振るった。しかし,今川了俊が九州探題として下向するや,菊池氏も追出された。戦国時代にいたると群雄割拠したが,大友宗麟が一時征覇した。だが島津氏の前に大敗したのを契機に諸豪族は大友氏から離れた。関ケ原の後,田中吉政が柳河に封ぜられたが嗣子なく,代わって有馬氏が久留米に封ぜられ,再び立花氏が柳河の領主となった。三池に立花氏の支藩が置かれ,明治の廃藩置県をむかえる。はじめ久留米,柳河,三池の3県であったが,のち三潴県として統合され,1876年(明治9)に福岡県には併合。〔参考文献〕『福岡県史』