●近松門左衛門 ちかまつもんざえもん
アジア 日本 AD1653 江戸時代
1653〜1724(承応2〜享保9)江戸時代前期の浄瑠璃・歌舞伎作者。本名は杉森信盛。幼名次郎吉。通称平馬。別号に平安堂・巣林子(そうりんし)などがある。【作者以前の近松】越前吉江藩士信義の次男として福井に生まれた。父は松平忠昌に仕えた300石取りの武家である。幼時を越前で送った近松が,何らかの事情で浪人した父につれられて京に出で,一条禅閤恵観に仕えたのは10代の後半と推定される。近松はそこで有職故実などの知識を身につけ,また,そのころ俳諧なども学び始めたようであり,1671年(寛文11)刊の『宝蔵』(山岡元隣編)に〈白雲や花なき山の恥かくし〉の一句が,杉森家の人々の句とともに入集している。が,1671年(寛文11)の恵観没後の近松20代の閲歴は,何人かの公家に出仕していたと推定されてはいるが,ほとんど不明である。近松は,そのあいだに宇治加賀掾と交渉を持ち,習作的に浄瑠璃の制作を行っていたと思われるが,近松作と確定できる最初の作品は,1683年(天和3),31歳のとき,宇治座で初演された『世継曽我』である。
【初期の近松】『世継曽我』は,曽我物の後日談として構想され,曽我の下人鬼王,団三郎の活躍により,曽我十郎の遺児祐若が曽我の世継となるという話を展開する。曽我物の馴染みの人物を生かし,随所におかしみを加えたこの作品は,伝統的な語りの世界を相対化し,中世的な伝統から離脱して新たな近世的な曽我物の世界を打ち立てている。1685年(貞享2)の『出世景清』は,前年大坂道頓堀で旗上げした竹本義太夫のために書き与えた作品である。これは,舞曲,古浄瑠璃『かげきよ』の世界を生かし,源平争乱終結後,源頼朝に一太刀浴びせんとする孤独な反逆者景清を主人公とする。これまた伝統的な世界を生かしながら随所に創作を加えた景清の造型によって,体制的秩序が確立した近世封建社会に生きる人間の生と苦悩とを同時に感得させる優れた作品となっている。その後,1692年(元禄5)ごろまでの近松は,竹本義太夫のために浄瑠璃を書き続けるが,1693年(元禄6),41歳のころからの約10年間は,歌舞伎作者としての活動が中心となり,とくに坂田藤十郎のために筆をとり,『仏母摩耶山開帳』(1693),『傾城阿波の鳴門』(1698),『傾城仏の原』(1699),『傾城壬生大念仏』(1702)などの秀作を書いている。そして,藤十郎の芸風を生かし世話の世界を取り入れたその歌舞伎の創作体験は,新たな浄瑠璃の創出にも意味を持つことになった。
【世話浄瑠璃の成立】1703年(元禄16)5月,近松の世話浄瑠璃の第1作『曽根崎心中』が,竹本座で初演された。それは,同年4月7日におこった醤油屋の手代徳兵衛と新地の遊女お初との心中事件に取材したものであった。それまでの浄瑠璃が,歴史上著名な人物・事件を世界として成り立つ時代浄瑠璃であったのに対し,ここでは,名もなき当代の庶民の卑小な事件が世界とされ,その言行を当代のものとして描き,当時の現実社会のありようが写実的に舞台にのせられているのである。このような世話浄瑠璃という新しい世界が,『曽根崎心中』によって初めて成立したのである。
【近松の達成】その後も近松は,時代浄瑠璃と世話浄瑠璃を並行させつつ執筆を続けていくが,世話浄瑠璃の世界では,武家の妻の姦通と妻敵討ちをとりあげた『堀川波の鼓』(1707)や『鑓の権三重帷子』(1717),飛脚問屋亀屋忠兵衛の封印切りと遊女梅川との逃避行を描く『冥途の飛脚』(1711),紙屋治兵衛と遊女小春との心中をとりあげた『心中天の網島』(1720),不良青年与兵衛の悪とその周辺人物の苦悩を浮かび上がらせる『女殺油地獄』(1721)などが,代表的なものといえよう。一方,時代浄瑠璃にも,国性爺の縦横の活躍や異国趣味の導入によって大当たりをとった『国性爺合戦』(1715),鬼界が島の俊寛を中心にすえた『平家女護島』(1720)などの秀作が数多い。そこでも中世的な語りの伝統をはるかに抜きんでた達成を示しているのである。かくて,近松は,1724年(享保9)11月22日に,〈それぞ辞世去るほどに扨もそののちに残る桜が花しにほはば〉と〈残れとは思ふもおろかうづみ火のけぬまあだなるくち木かきして〉という,自作に対する自信とそれを照れているかのような2首の辞世を残して没した。
〔参考文献〕森修『近松門左衛門』1959,三一書房
諏訪春雄『近松世話浄瑠璃の研究』1974,笠間書院
祐田善雄『浄瑠璃史論考』1975,中央公論社