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●チェコスロヴァキア

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 東欧中央部にある社会主義国家。

【国土】面積は12万7827平方km,わが国の約3分の1,人口は約1,500万人。西は東・西両ドイツ,北はポーランド,東はソ連,南はハンガリー,オーストリアと国境を接している。東西に長く,約750kmで,その西端は中欧に突き出した帯状の内陸国である。首都はプラハ。

【自然と住民】西部のボヘミア(ベーメン)は北のポーランド国境を走るズデーテン山脈,北西の東ドイツとのあいだにあるエルツ山脈,南西の西ドイツ国境付近にあるボヘミア森に囲まれ,西ヨーロッパの海洋性気候からさえぎられた内陸性気候で,エルベ川上流域にあたり,その支流モルダウ川,ヴルダヴァ川などが流れる。麦・ジャガイモ・甜菜・ホップなどの農作物のほか,鉄・石炭を産し,水力発電も盛んで工業地域でもある。中央部はモラヴィア(メーレン)低地で,ドナウ川の支流モラヴァ川スヴラトカ川が流れ,低いファイサー(白)山脈がある。ハンガリー平野の北端がモラヴィア南部に及び,ブラチスラヴァ(プレスブルク)などの都市を形成している。東部はスロヴァキア山地になり,カルバート山脈カルパチア山脈の北端部にもあたる。スロヴァキアは農業の中心である。気候は全体としては温和である。住民はボヘミア,モラヴィアではチェコ人が多く,チェコ人は全人口の3分の2を占める。スロヴァキア(スロヴァーク)人は西のスロヴァキアを中心に居住している。ともに西スラブ系民族で,チェコ人スロヴァキア人の国というのが国名になっている。両者の言語はチェコ語スロヴァキア語で,ともに公用語に認められている。このほか,マジャール人,ドイツ人,ウクライナ人などが住んでいる。宗教はローマ=カトリック教徒が78%で,残りをプロテスタント諸派,ギリシア正教徒などで占めている。

【民族の定着】スラヴ人はカルパート山脈を越えて,前2世紀ごろから東欧に入ってきた。その当時は,スラヴ人としての共通性が強く,西スラヴ・南スラヴの差はなく,チェコ人スロヴァキア人などに細分化されるのは,その後の歴史的経過のなかにおいてであると考えられる。匈奴が西進を開始したことによって,黒海周辺より東に住んでいたゲルマン人ゴート人が,圧迫されて西に去り,いわゆる民族移動が4世紀におこった。これによってできた空白地に,スラヴ人が移動してきた。ボルミアには,ゲルマンの一族であるマルコマンニ族がいたが,これが移動したのち,チェコ人がボヘミア,モラヴィアに入り,東方系のアヴァール人の圧迫を,623年には排除してサモ王国をつくったが,658年に滅んだ。カール大帝アヴァール人を討伐したので,アヴァール人の恐怖は消滅したが,フランク王国の支配を受けるようになった。以上は,ボヘミア,モラヴィア地方が諸民族の交差する地域であり,東方から西進してくる草原民族とラテン・ゲルマン民族の接点になっていたことを示している。

大モラヴィア王国】833年,モラヴィア川流域に,モイミールー族によって大モラヴィア王国がつくられた。前述の,カール大帝ティサ川アヴァール人を破るより以前のことで,最盛期には,ハンガリー西部よりユーゴスラヴィアにいたる地域の古名であるパンノニアを支配した。大モラヴィア王国は城塞や教会をもち,都市を形成していて,一定水準の文明をもち,862年には,ラスティスラフ王がビザンティン皇帝ミカエル3世と同盟を結び,東フランク(ドイツ)やブルガリア族に対抗している。9世紀半には,キリルおよびメトディウスの伝道によって,ギリシア正教とキリル文字がこの国に伝えられた。同じころ,東方から入ってきたマジャール人によって,国の東部を侵され,906年,マジャール人に敗れて滅亡した。

【プシェミスル王朝】その後,ボヘミアを中心にして,ボヘミア王国がチェコ人の国として建国された。920年に即位した聖ヴァーツラフ1世は,プシェミスル王朝の始祖とされる。プラハはこれよりチェコの首都になった。ボヘミア王国はバイエルンやマインツ司教区の働きによって,カトリック化され,11,12世紀のドイツ東方植民で,ドイツ化がすすめられた。それは,ドイツの文化・経済が進出してくることであり,チェコが東欧のなかで,最も西欧文明のすすんだ地域の一つになる理由であるが,ドイツ化に対抗する動きも激しかった。一般的にいえば,地方貴族の勢力に悩まされていたプシェミスル王朝の王たちが,ドイツ商人などに特権を与えて呼びよせ,都市を形成させて,その力をもって王国統一を実現しようとしたのに対して,チェコ人を地盤とする封建貴族の反発があったとみるべきである。ドイツの進出によって,オットー大帝(在位936〜973)の時代,神聖ローマ帝国に従属関係に入ったボヘミア王国は,しかしながら自立性も強く,ドイツ帝国に併合されることはなかった。それのみか,商業・鉱業の発展による経済的富裕を利用して,皇帝との関係を緊密にしていった。ウラディスラフ2世(在位1140〜73)がタカル2世(在位1253〜78)の時タリア遠征に協力して,1156年に王位を承認させたり,オタカル1世(在位1198〜1230)が1212年,世襲の王位権を認める金印勅書を得たことなどがこれにあたる。オタカル2世(在位1253〜78)の時代には最大版図に達し,銀山の開発によって,最も富める諸侯となったが,皇帝ルドルフとマルヒフェルドで戦って死んだ。次のウァーツラフ2世(在位1278〜1305)は1290年,ポーランド王を,1301年にはハンガリー王を兼ねたが,ウァーツラフ3世(在位1305〜06)はハンガリー王を放棄し,ポーランドでも反乱がおこり,後継者が絶え,ドイツのルクセンブルク家が支配することになった。

フス戦争空位時代をへて即位したルクセンブルク王朝のヤン(在位1310〜46)はハインリヒ7世の子供で,ボヘミア王になると,聖俗貴族に特権を認めて妥協した。カレル1世(在位1346〜78,神聖ローマ皇帝としてはカール4世)の時代はボヘミアの黄金朝で,王位継承順位を定めて混乱を防ぎ,モラヴィア,シュレジエン,上ルサティアを領土に加え,産業を発達させ,国内を整備し,プラハ大学を設立(1348)するなどし,1346年には皇帝に選ばれた。ボヘミアの発展がドイツの力に負ったことは否定できないが,ドイツ支配に対するボヘミア民族主義はしだいに高まり,ウラディスラフフ7世(在位1378〜1419)の死後,1419年から1433年にかけて,フス戦争がおこった。ルターに先立つ宗教改革者フスの出現も,ボヘミア主義の現れとみなしてよいが,フスの処刑後,圧迫に対する反発の気運が高まり,ジギスムントの即位を認めず,フス戦争となった。フス派には,穏健派のウルトラキストと過激派のタボル派があったが,外敵には一致してあたり,5回にわたる異端十字軍にも耐え,一時はブランデンブルクなどにも進撃した。教会側は1431年のバーゼル公会議で和平案を作成して,ウルトラキストと和し,1434年にタボル派を破って,宗教争乱でもあるが,民族問題でもあったフス戦争を終わらせ,ジギスムントの王位を認めさせた。

【ハプスブルク支配】1526年,モハチュの戦いでハンガリー王ラヨシュが戦死したあと,ボヘミア議会は皇帝カール5世の弟フェルディナントを選んで国王とした。これにより,ハプスブルク家の支配が開始されるが,これは南東より迫るトルコに対抗するために,オーストリアの力が必要であったためである。ハプスブルク家の歴代王はカトリックで宗教統一することを進めた。三十年戦争で皇帝側将軍として活躍したヴァレンシュタイン(チェコ名ヴァルドシュティン)もカトリックに改宗したチェコ貴族である。1620年10月の白山(ビーラー=ホラ)の戦いはこの政策の決算であった。この戦いは1618年5月に,2人の国王参議官がプラハ王宮の窓から投げだされたことからおこる三十年戦争のなかで生じ,プロテスタント貴族が推したフリードリヒ=プァルツ侯に対して,フェルディナント2世(在位1619〜37)の軍が,プラハ郊外ヴァイサー=ベルク(白山)の戦いで勝利を収めた。このあと,プロテスタント貴族は処刑されたり,追放され,皇帝派カトリック貴族に代えられ,ハプスブルク家のボヘミア世襲が決められて,ドイツ化とカトリック化がすすんだ。ボヘミアは三十年戦争の戦場となったので,人口も半減し,荒廃した。当時トルコは強力で,圧迫を加えてきた。1683年,最後のウィーン包囲を行ったが,オーストリア軍はこれをおし返し,カルロヴィッツ条約パッサロヴィッツ条約でハンガリーをトルコから解放した。

啓蒙思想と革命】三十年戦争で衰退したボヘミア経済は,繊維工業とガラス工業をもって立ち直ってきたが,その中心地であるシュレジエンを,オーストリア継承戦争によってプロイセンに奪われたので,ズデーテン(スデート)を核にして,この種の工業を振興させた。マリア=テレジアについで王位についたヨーゼフ2世(在位1765〜90)は,1775年に北ボヘミアでおこった農民反乱に影響され,啓蒙的改革をすすめた。プロテスタントの商・工業活動を許した寛容令とともに,農奴廃止令を出し,不徹底ではあったが,中産層をつくりだしていった。これらの改革は,啓蒙思想のひろがりと相まって,チェコ人に民族的な自覚をもたらせた。それは,チェコの文学・言語・文化に対する認識に始まり,政治的自覚にいたるナショナリズムの復活となった。1848年三月革命がおこると,チェコ市民は封建制の廃止,ボヘミア王国の実現,チェコ語の平等などの要求を掲げ,6月にはスラヴ会議を開いた。会議期間中に急進派が暴動をおこしたので,オーストリアのヴィンディッシュ=グレーツの率いる軍隊によって,プラハは鎮圧された。この間,チェコ民族主義の指導者であるパラツキーは,ドイツ統一を準備する五十人委員会への出席を,チェコ人なるゆえに断り,ロシアやドイツの圧力に対して,オーストリアをむしろ強化し,そのなかで,チェコ人の平等な権利を獲得しようとするオーストリア=スラヴ主義を主張していることは注目される。

二重帝国】オーストリアの国力は明らかに低下していた。近代化に遅れたことと多民族国家であることが大きな理由であろう。ウィーン会議の結果としてできたドイツ連邦の盟主として,大ドイツ主義を主張してきたオーストリアは,新興国で小ドイツ主義を説いたプロイセンに圧倒され,1866年の普墺戦争に敗れ,ドイツ統一から排除された。それに伴って,1867年には,オーストリア=ハンガリー帝国に再編成された。いわゆる妥協(アウスグライヒ)であり,二重帝国の成立である。二重帝国の成立は,オーストリア内でドイツ人につぐ地位を望んでいたチェコ人にとっては打撃であった。皇帝フランツ=ヨーゼフはボヘミアの自治を認めて妥協をはかった。チェコ出身のターフェが1879年に内閣を組織すると,1880年には言語令を発してチェコ語に一定の権利を認め,それは1897年に,バーデニ首相のもとで,新しい言語令の発布となったが,ボヘミア,モラヴィアでの官公吏採用に,チェコ人が有利になるとして,ドイツ人とマジャール人から反対がおこり,1899年に撤回された。また,1873年と1895年の選挙法改正は,チェコ人の政治上の立場を,多少とも有利にした。

【チェコスロヴァキア建国】第一次世界大戦中,チェコ人はボヘミア,モラヴィア,スロヴァキアを合一して,政治的独立を得る運動をおこしたが失敗した。これに対し,マサリクはパリに亡命して,1916年に「チェコスロヴァキア国民会議」を設立した。彼はアメリカにも渡って,民族国家建国の必要を説いた。チェコ軍団の反ボルシェヴィキ活動もあって,フランス,イギリス,アメリカは国民会議を承認した。1918年10月19日,国民会議はチェコスロヴァキア共和国の独立を宣言し,1919年9月に調印をみたオーストリアと連合国間のサン=ジェルマン条約によって,正式にチェコスロヴァキアの独立が確認された。12月には,西欧民主主義共和政をとる憲法が制定され,アサリクを初代大統領とし,クラマルシュを首班とする内閣が発足した。

【両大戦間】建国したチェコスロヴァキアは西ヨーロッパと協力したが,とりわけ,国民会議がパリに置かれていたこともあり,親フランス的であった。1920年に発足したチェコスロヴァキア,ユーゴスラヴィア,ルーマニアのあいだの小協商は,ドイツを警戒するフランスが背景にあって,トリアノン条約に不満をもつハンガリーの動向に注目した小協商加盟3国の利害と一致してできたもので,1933年にはソ連と不可侵条約を結んだ。1933年,ドイツでナチスが政権を獲得すると,ズデーテンにいたドイツ人300万人以上はヘンラインを中心に,ズデーテン祖国戦線を結成し,1935年にはズデーテン=ドイツ党に改組され,チェコスロヴァキア最大の政党になった。ヒトラーは,ズデーテンにいるドイツ人が差別されていると非難して割譲を迫り,ミュンヘン会議がもたれた。フランスやイギリスの援助を期待したチェコスロヴァキアであったが,両国ともに戦争を避けるために譲歩し,ズデーテンはドイツ領となり,大統領ベネシュは1938年10月,ロンドンに亡命し,チェコスロヴァキアはドイツの保護領となって,第二次世界大戦を迎えた。

【社会主義国家】ベネシュはロンドンに臨時政府を置いた。1944年10月,ソ連はチェコ領内に入り,1945年5月にはプラハを占領した。第二次世界大戦後に帰国したマサリクは,チェコスロヴァキアを西欧とソ連のあいだのかけ橋にする思想をもっていた。しかし,ソ連の援助を受けたチェコ共産党は勢力を伸ばし,1946年の総選挙で第1党となり,1948年2月には,共産党からみて好ましくない人物が逮捕されて政変がおこり,最後まで外相にとどまっていたマサリクの子どもヤン=マサリクが,警察発表では自殺,西欧側からは暗殺とみなされる死に方をした。共産党は粛清を繰り返し,ソ連型共産国になっていった。1956年2月のフルシチョフのスターリン批判演説以後,チェコスロヴァキアにも非スターリン化の影響がでてきた。自由化は経済政策に失敗したノヴォトニー政権への批判となり,1968年の民主化をすすめる「プラハの春」で頂上に達したが,ソ連は軍隊を送って,これを抑えた。1968年1月に発足したドプチェク政権はソ連との関係を考慮しつつ,独自の道をすすんだ。チェコの自由な思想を恐れたソ連は1968年6月から,ワルシャワ条約機構軍の演習をチェコ国境でつづけ,8月20日から同軍がチェコ全土を占領し,10月のモスクワ会談で,ソ連軍の半永久的駐留を認めさせた。フサク政権はソ連との関係を正常化させるのにつとめたが,自由化の動きもなお続いている。

【文化】早くからカトリックが入ったため,チェコ風ゴシックの優れた建築が多い。近代文学ではティルが民話にもとづいて歴史劇を残し,ネムツォバーは民話を集めた婦人作家である。詩ではネルダが著名である。20世紀になるとチャペク兄弟が活躍しているし,第一次世界大戦を題材にして『兵士シュベイク』を著したハシェクは反戦文学の先駆をなしている。「プラハの春」とは,本来,プラハで行われる音楽祭をさすが,それほど音楽に親しんでいるチェコ人のあいだからは『売られた花嫁』を作曲したスメタナや『新世界交響楽』のドボルザークらの優れた作曲家を生み,演奏技術も高い。人形劇はこの国の伝統文化で,映画にも優れた作品を出している。舞踊も民族的伝統を誇り,最近では,各種スポーツに活躍しているものも多い。

【現代の政治と経済】議会は人民議会のほかに,スロヴァキア民族会議がある。憲法は1960年7月11日に制定され,共産党独裁を定めるので,野党はない。経済面では,古くから西欧文化を取り入れ,東欧第1の工業国である。機械,製鉄,自動車,兵器を代表的な製品とする工業は技術水準においても高いが,労働力の不足に悩み,労働の量と質に応じた配分制をとったが,原料や燃料の高騰などにより,十分な成果をあげることができず,1981年から第7次5カ年計画に入っている。輸出入額とも対ソ連が多く,ついで東ドイツ,ポーランド,ハンガリーなどの東欧諸国となっている。農業は国有化・農業生産共同組合化がすすみ,スロヴァキア地方を中心に,大麦・小麦・ジャガイモ・甜菜・トウモロコシ・ホップ・果実などを産する。地下資源も豊かで,石炭・鉄・銅・鉛・岩塩・銀などをもつ。コメコン(東欧経済相互援助会議)の国家分業では工業面を受けもっているといえる。通貨単位はコルナで,公定用と旅行者用のレートが定められている。〔参考文献〕矢田俊隆編『東欧史』山川出版社

矢田俊隆編『ハンガリー,チェコスロヴァキア現代史』山川出版社

バラクロウ編,宮島直機訳『新しいヨーロッパ像の試み』刀水書房

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