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●地域教育計画 ちいききょういくけいかく

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 地域住民の人間形成を目標として,比較的長期の見通しのもとに企画される教育計画のこと。そのさい,計画主体を誰と見るかを争点にして二つの地域教育計画論がある。一つは,国民教育権の立場からの地域教育計画論である。中内敏夫や藤岡貞彦が提唱する〈国民の教育要求の科学的見通しと計画組織化をはかりつつ,地域住民の主体的意志によって「子育てと教育のシヴィル=ミニマム(公序良俗)」をつくりあげていく〉地域教育計画論が代表的である。いま一つは,国家教育権の立場からの地域教育計画論である。清水義弘や天城勲が提唱した〈教育計画とは,量的に表現された教育政策の目標を達成するための手続きの総体〉であり,計画主体も〈行政的・財政的条件から国・地方自治体,さらには一定の国家群(たとえばEC,OECDなど)に限定される〉とする地域教育計画論が代表的である。このような二つの地域教育計画論を視野に入れることになるのは1970年代のことである。以下,戦後のわが国における地域教育計画論の歴史的変遷をみるなかで両論の特徴を概観していこう。

【戦後初期の地域教育計画論】戦後民主化政策が進行したこの時期,教育界にも地方分権主義が導入され,教育委員会法(旧法)によって文部省の権限も大きく制約されていた。教育内容面でも,学習指導要領は“試案”と明記され,その決定は学校自治にゆだねられていた。このような教育体制を支える教育思想は,アメリカのコミュニティー=スクール(地域社会学校)論である。社会科を中心にカリキュラム改造が活発化し,〈地域社会科教育計画〉が各地で作成された。1948年(昭和23)1月には,“○○プラン”の有名校は225校に達した。代表的なものに,海後宗臣・梅根悟の指導になる川ロプラン,大田?の指導に成る本郷プラン,さらには桜田プラン福沢プラン北条プラン明石プラン善通寺プラン西条プランがある。これら諸プランの作成過程に立ち入るとき,そこには小川利夫が指摘するように三つの系譜がある。第1は,“文部省学習指導要領型”のカリキュラム改造の系譜,第2は,“コア連(コアカリキュラム連盟)の生活教育型”のカリキュラム改造の系譜,第3は,“そのいずれにもあてはまらない一連の地域教育計画型あるいは全村学校型”のカリキュラム改造の系譜,である。これら三つの系譜は,アメリカのコミュニティ=スクール論に影響された点では共通性をもつものであるが,教育における地域性のとらえ方では微妙な差異がみられた。第1,第2の系譜のプランがカリキュラムの地域社会化の方向をとったのに対して,第3の系譜のプラン,たとえば本郷プランは,〈成人教育の再編成の観点をもふまえた「教育における民衆組織の成立及び運営」〉を第一義的に重視していた。それは,教委法をはじめとする地方分権化のための諸法令を前にして,〈住民が自らの力で教育を仕組みつづけていく作業〉としての地域教育計画論であり,計画主体を地域住民とみなす教育思想の登場であった。

【1960年代の長期総合教育計画論】1950年代に入ると,先の諸プランは早くも立案者自身からも放棄されるなど,姿を消していった。その原因は,内部的には地域住民が計画主体・教育主体となりきるにはあまりにも主体的条件が欠落していたことや,児童から成人にいたる発達に関する基礎的研究が未開拓であったことにみい出せる。外部的には教育の地方分権化の凍結という政治情勢にみい出せる。とくに,後者の動きは歴代の保守党政府によって,学習指導要領の改訂,基準性の強化,中学校一斉学力テストの実施,高校多様化などの国家主導型の諸施策として現実化されていった。そして,これらの諸施策を支えた教育計画論が長期総合教育計画論であった。普通,“人的能力開発計画”“教育投資論”と呼ばれ,先述の清水や天城が代表的な提唱者である。特徴をまとめると,[1]教育計画の出発点を産業の要求(社会的要請)におき,経済計画のための教育計画であること,[2]計画主体は国家であること,[3]教育の経済的価値の認識を強調し,一国の経済計画と教育計画の一体化・一元化・総合化をめざすこと,[4]教育計画の技術化・予測化の強調,にある。長期総合教育計画論は,当時の高度経済成長政策と一体化した,“上からの教育計画論”であり,戦後初期の地域教育計画論とそれを支えた教育の地方分権化の思想を〈古い波〉〈牧歌的〉と批判することによって登場したものである。同時並行して策定された各県レベルの教育計画の大部分も,富山県高校課程三・七体制に示されるように,“国家・中央からみた地域教育計画”であった。その結果,日本の教育は大きく変化し,いわゆる“高学歴社会”“教育爆発”などの言葉が流行し,高校・大学への進学率は急上昇していった。

【1970年代の国家長期教育計画論と下からの地域教育計画論】量的側面から教育現実をながめるならば,1960年代から1970年代にかけての長期総合教育計画論にもとづく諸施策は,国民の教育要求にこたえてきたかのようにみえる。しかし,この時期は〈そこでつくりだされてくる人間像や人間的資質をめぐってさまざまな疑問が各界にひろがっていく時代〉でもあった。〈新しい計画論が,自治体の一部や住民運動のレベルでさぐられ始める時代〉でもあった。その代表的な動きの一つが,1969年(昭和44)9月にはじまり,7年半に及ぶ地域教育運動である茨城県真壁郡関城町黒子小学校統廃合反対闘争である。闘争中の1973年(昭和48)3月,黒子小 PTA,教育後援会合同総会は同盟休校と自主教育を決定。6割の児童の参加で6月8日まで自主教育がおこなわれた。そこに参加した小学校教師・鈴木正気によれば,自主教育は〈文字通り住民が運営する学校〉での教育であり,カリキュラムも〈農村における生産労働,文化などを意識的に位置づけ〉,〈地域住民が直接教育する側に立つ〉ものであったという。そこには,〈教育を地域という土台からとらえなおす〉視点と,〈学問や科学を住民が問いなおす〉視点が貫徹されており,“地域教育要求→地域教育運動→地域教育計画の策定および実践”という,教育における住民自治の思想とその具体的展開をみることができる。鈴木自身のその後の実践について付言すれば,自主教育の真最中,日立市立久慈小学校へ転勤し,その年を起点とする8年間に及ぶ社会科実践を行った。その実践が,地域住民の良質な教育力に支えられ,地域を舞台に科学と教育を結合した実践であることは有名である。一方,1970年代における国家長期教育計画論は,高等教育計画と都道府県・指定都市の教育計画のなかに再提起されてくる。高等教育計画は,文相の私的諮問機関である高等教育懇談会の最終報告書「高等教育の計画的整備について」(1976年(昭和51)3月)が作成されるにいたる4年間の同懇談会の報告経過に特徴をみることができる。藤岡貞彦によれば,〈計画主体の不在,大学教育への問いの不在,計画の科学的見通しの不在〉という問題点をもち,〈10年前の後期中等教育計画と同じ道を歩んでいるかにみえる〉という。各都道府県・指定都市の教育計画は,文部大臣官房企画室調査(1977年(昭和52)5月)によると,教育単独計画13,他の計画のなかに含まれる計画49を数えている。特徴は,[1]第3次国土総合開発計画定住圏構想の一部であること,[2]人的能力開発万能時代と異なり,コミュニティ計画と生涯教育計画が中核的位置を占めていること,である。ここに,上からの“ふるさとづくり”的教育計画論と,〈地域自治体に根ざし地域の教育運動に支えられた地域教育計画〉論の並存状況が到来したのである。こうしたなかで,1984年(昭和59)8月,政府は“臨時教育審議会”を設置し,〈21世紀のための教育改革〉をめざして新たな国家教育計画の策定を開始した。〔参考文献〕藤岡貞彦『教育の計画化』1977,総合労働研究所

松原治郎・鐘ケ江晴彦『地域と教育』,教育学大全集,1981,第一法規出版

海老原治善『地域教育計画論』1981,勁草書房

鈴木正気『川口港から外港ヘ』1978,草土文化