●タンネンベルクの戦い タンネンベルクのたたかい
ヨーロッパ ドイツ連邦共和国 AD1914 ドイツ帝国
第一次世界大戦初期の1914年8月下旬に旧東プロイセン(現在はポーランド領)でドイツ,ロシア両軍の激突した会戦。ドイツ軍は,第一次世界大戦の開戦とともにシュリーフェン計画にもとづき主力を西部戦線に投入し,ベルギーの中立を侵して,フランス国内に進撃した。そこで,ロシア軍はフランスとの軍事協定に従って,主力をオーストリア,ハンガリー軍にむけるとともに,一部の兵力を東プロイセンのドイツ軍にむけ,攻勢に出た。これに対して,東部戦線の守備を担当していたフォン=プリットヴィッツ大将の率いるドイツ第8軍は,東プロイセン東部国境から侵入したフォン=レンネンカンプ大将指揮下のロシア第1軍をグムビンネン付近に迎えて交戦した。勝敗が決しないうちに,さらにサムソノフ大将のロシア第2軍が南方国境方面から迫ってきたため,プリットヴィッツ軍司令官は,ヴァイヒゼル河畔にドイツ軍の後退を決意した。しかし,この決意はモルトケ参謀総長麾下(きか)の最高統帥部に拒否され,軍司令官は解任された。後任の第8軍司令官フォン=ヒンデンブルク大将は参謀長ルーデンドルフ少将や参謀ホフマン中佐の優れた補佐を得,後退中の第8軍の態勢をたて直して,劣勢の兵力にもかかわらず用兵の妙を発揮し,ロシア第2軍を東プロイセンの西部湖沼地帯(マズール湖沼地帯という)で奇跡的に包囲殲滅することに成功し,勝利した。
ドイツ第8軍はロシア第2軍と比較すると,砲兵は約20%優位を占めていたのに反し,歩兵・騎兵・機関銃の数量では,約20〜30%劣勢であったにもかかわらず,戦勝を得られたのは,ドイツ軍のほうが国土防衛作戦の利を収め,軍隊の素質の優れていたことのほか,さらに軍司令官をはじめとする高級指揮官のチームワークのよさを指摘することができる。それに反してロシア軍の高級指揮官の人間関係は悪く,とりわけレンネンカンプのサムソノフ救援の不手際は日露戦争以来の両者の遺恨によるという見方が有力である。敗将サムソノフは戦場近くで自決し,レンネンカンプは後日軍籍を剥脱された。ロシア軍の戦死者数は約3万人と推定されている。
1410年7月15日,ポーランド領に進出しようとしたドイツ騎士団がポーランド・リタウエン(リトアニア)同盟軍とタンネンベルクで戦い大敗した。1914年8月23日から31日までロシア軍に対して包囲殲滅戦の行われた場所は正確にいうと,タンネンベルクの村より離れていたが,ドイツは約500年後に歴史上の汚名をそそいだという思いをこめてタンネンベルク会戦と命名した。
この戦いの勝利によりヒンデンブルクとルーデンドルフは国民的英雄となり,第一次世界大戦末期のルーデンドルフの軍事独裁やワイマール共和国時代のヒンデンブルク大統領出現の背景となった。しかし,ドイツはタンネンベルクの戦いに勝利しても第一次世界大戦の敗戦国になった。その最も重要な敗因の一つは,タンネンベルクの戦いを救援するため西部戦線の右翼からドイツ軍2個軍団の兵力を東部戦線に回すことにしたモルトケ参謀総長の決断にあったといわれている。この2軍団の援軍はタンネンベルクの戦いにまにあわず,西部戦線の戦力の低下を招いただけであった。それにより短期即決を生命とするシェリーフェン計画は完全に瓦解し,ドイツ軍は西部戦線でもマルヌの戦いに敗れ,フランス軍に撃退された。
〔参考文献〕『タンネンベルヒ殲滅戦』1967,原書房