●タンジマート
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オスマン帝国で,1839年から1876年にかけて行われた改革を意味する。タンジマト=ハイリエ(恩恵的改革)が正確な名称である。スルタン,アブドゥル=メジドが,親英的思想の持主であった大宰相ムスタファ=レシト=パシャの助力により始められた。1839年11月,帝国の高位高官や,在イスタンブルの外国使節団の参加を求めたギュル=ハネ庭園での儀式で発布されたギュル=ハネ勅令にもとづき,改革は行われた。改革の基本理念は,西欧文明の導入による近代化をめざしたものである。その内容は,[1]ムスリム・非ムスリムを問わず,全帝国臣民の名誉・生命・財産の保障,[2]おのおのの財産に応じた課税,[3]徴兵制についての新たな原則の制定,[4]裁判の公正と公開の原則,[5]財産の相続・処分の自由,[6]相続財産の没収制度の廃止,に要約される。地方行政機構の改革は,州,県,郡,郷,村と細分化され,中央集権体制の確立をめざした。兵制においては,それまでなんの基準もなく徴兵が行われていたが,ムスリム・非ムスリムを問わず全臣民の抽籤によって,または志願によって,一定期間の兵役の義務を負った。しかし,キリスト教徒は,これに反発し,代納金による兵役免除を要求したため,完全実施はなされなかった。財政改革では,大蔵省が設置され,税の徴収方法の改正がはかられたが,十分な成果が得られなかった。また紙幣も発行されたが,兌換紙幣でなかったためインフレをおこしてしまった。財政再建のため借款が始められた。最も重視されたのは教育改革であった。国民教育は,宗教教育機関に任されており,メドレセがその中心であった。このため,別に国家統制下にある大学(ダーリュッ=フェヌーン)を頂点とする学校制度が設けられ,ガラタサイ=リセー,師範学校,各種技術学校などが設立された。そのほかの改革事業としては,司法審議会,通商評議会の設置(1840),民事・刑事混合法廷の開設(1847),オスマン銀行の設立(1856),最高法院・高等法院の開設(1867),オスマン国籍法の公布(1868)があり,刑法・商法・民法における西欧法の導入もはかられた。しかし,これらの改革を推進したムスタファ=レシト=パシャなどのタンズィマート官僚は,西欧の制度を安易に導入したきらいがあり,十分なオスマン帝国への定着に努力が足らなかった。このため,イスラーム教の宗教関係者は,この改革に反対し,保守派官僚と結び十分な成果を得られず,次の立憲体制への道をたどらねばならなかった。