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●檀家制度 だんかせいど

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江戸時代以降の寺と檀家の関係。檀家とは、葬儀や一切の法事を一定の寺院にまかせ、寺の財政を援助するため施物する俗家のこと。檀家はだんけ、檀方とも呼ばれる。奈良・平安時代から代々一つの寺に寄進する檀徒があり、藤原・源・平など有力な氏族は氏寺をつくり、檀家として寺を支配するものもあった。平安時代中期に入ると浄土教の葬祭が庶民のあいだに普及しはじめ、鎌倉新仏教が民衆に浸透したことによって、庶民が特定の寺の檀家になる例が増えていった。民衆一般に行き渡るのは、幕府および諸藩が切支丹禁制のため、檀家制度を実施させた17世紀中期からである。この制度ができたのは1635年(寛永12)。この年江戸幕府はキリスト教徒の摘発の役を全国の寺院に命じた。これに応じた寺院は、周辺の人々の身分を代々自分の寺で菩提(葬式)を弔う檀家でありキリスト教徒ではないと保証した。ここから寺院と檀家の関係が幕府の手によりつくられたのである。寺院側はこれを契機に、檀家の身分保証と引き換えに檀家に対して寺の経営に協力するよう要請し、寺の経済的基盤を支える者として位置づけた。寺が檀家に要求したものを大別すると、[1]祖師忌・仏忌(釈迦の死去した2月15日)・盆・春秋の彼岸・先祖の命日には必ず寺に参詣すること、[2]先祖の年忌法要檀那寺の僧侶に頼むこと、ほかの寺には行かぬこと、[3]檀那寺の命に従い寄付には進んで応ずること、[4]先祖の仏事法要は檀那寺に頼むこと、[5]絶対に離檀せぬこと、[6]檀家の者は家族1人につき1カ月に米3合ずつ住職に差し出すこと、などである。これに逆うと僧侶は身分保証の寺請証文を書かない上いうことである。身分保証がなければキリシタンということになるため、檀家はこれらの条件を忠実に守らねばならなかった。この制度と同時に、各地で宗門改帳がつくられ、一家全員の所属する寺院が記録された。所によっては8歳になるとその土地の寺院に出頭し、氏名を記し印判を残す八つ判が行われた。そこでは寺は戸籍も管理し、移住や婚姻の際には寺でその手続きをした。また寺は財源拡大をはかり、檀家の寄進の機会を多くし、それまで1周忌程度であった死後の法事を33回忌、50回忌へと増やした。地方の寺では寺普譜などに檀家が労力を提供する義務を定めたところもある。ただし神宮だけは檀家制度から離脱することを許されていた。しかしこの制度に対して朱子学者や神道学者たちから批判が続出し、幕府は1665年(寛文5)7月、僧侶の横暴をたしなめ、寺が檀家に強圧的手段に出た場合は檀家の側に拒否権があることを定めた。このような動きに呼応し、いくつかの藩では檀家を寺の収奪から解放する政策をとった。代表的な藩は、藩主保科正之の会津藩、藩主徳川光圀の水戸藩、藩主池田光政の岡山藩である。この3藩では領内寺院の約半数を破却した。しかしこのような動きはごく少なく、大半の地域では寺の檀家からの収奪は年々増大していった。その結果寺院は大伽藍の新築はもとより、華美な葬式法要が行われるようになり、一方では祠堂金(高利貸付)の運用、土地の集積など、教学抜きの営利事業へと変質していった。つまり檀家の側に選択の余地がないままに形骸化した檀家制度は現在にいたるまで続いている。生まれる前から葬式を出す寺が決まっているという奇妙な関係が、1635年以降、現在にいたるまで続いているのである。1871年(明治4)に宗門改帳は廃止され、廃仏毀釈の運動がおこり、村ぐるみで神葬祭にかわるところもあったが、依然旧習に従うものが多かった。これは、社会の側から葬祭の機能を寺に委託要請してきた一面があったことをうかがわせる。檀家は寺院・教団の構成員とみなされ、1888年(明治14)、檀家のあいだで総代を決定し、寺院の願書や届には連署捺印が定められた。現在では宗教法人法にもとづく寺院規則により役割が決められている。檀家制度こそ仏教を葬式仏教といわしめるもとである。


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