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●タレイラン

ヨーロッパ フランス共和国 AD1754 フランス王国

 1754〜1838 フランスの政治家,外交官,パリ生まれ。名門貴族の家柄で父は高級将校。幼いころ,脚をけがしたため長子であったが僧門に入る。サン=シュルピスの神学校生となり,1775年,ランス大司教区内の僧院長に昇進。1780年,司教会議の総代もつとめ,1789年,オータンの司教として全国三部会僧侶身分に選ばれる。憲法起草委員のほか僧侶財産国有化や僧侶民事法を推進するなど改革派として活躍し,1790年の連盟祭ではミサも捧げた。1792年1月,イギリスへの特使となり,8月10日事件後,イギリス亡命を決めるが,英仏関係の悪化・野党代表との接触などのため,1794年2月,ピット内閣から退去令を受けた。1796年9月アメリカから帰国,翌年7月,バラス総裁・スタール夫人のつてで外務大臣に就任。ナポレオンのエジプト遠征も彼の献策による。いったん辞任後,シェイエスと結びナポレオンを担いで総裁政府をくつがえし,執政政府下でも外務大臣に就任。リュネヴィル(1801),アミアン(1802)の講和交渉に全力を注ぎ,コンコルダの締結(1802)でもガリカン教会体制を固めることに腐心。帝政下で大法官の地位とベネベント公領を与えられるが,ナポレオンの強硬な対墺政策と意見を異にし,反英政策にもついていけず外務大臣を辞任。次席大選挙侯に任ぜられたがスペイン征服には公然と反対した。1808年にはロシア皇帝アレキサンドル1世に抵抗をそそのかせ,フーシエと組んで反ナポレオンの密議をした。1812年,モスクワ退却のナポレオンに講和をすすめたが聴かれず,ブルボン家の復位を策し,1814年,同盟諸国とくにロシア皇帝を説得。ウィーン会議でも正統主義に立ち,1792年の開戦以前の国境と王家への復帰を唱え,キャッスルリーやメッテルニヒの支持を受け,困難なフランスの立場をきりぬけた。百日天下後,ルイ18世とともに帰国し,第二次復古王朝で参事院議長になるが過激王党の怨嗟の的となり辞職。貴族院議員として出版の自由を守ろうとしたが影響力の後退は否めなかった。1世代違うティエールとも接触し,機関誌「ル=ナショナル」を刊行。七月革命でルイ=フィリップの即位に協力し駐英大使となる。ベルギー独立問題でパーマストンに抑えられ,1794年に大使を辞し引退。1802年,還俗し翌年には妻帯していたが,カトリック教会と和解して死んだ。結局,混乱の収拾のためナポレオンと結んだが,最大の目標はブルボン家と,革命の成果たる立憲制との妥協であり,それによってフランスの安定,ヨーロッパの平和を求めた。そのため終始柔軟に事態に処し,復古王朝が反動に傾くと,より自由主義的王政を選びとった。

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