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●ダライ=ラマ

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 チベットの政権教権をもつ活仏の称号で,ダライとは蒙古語で大海,ラマとはチベット語で師を意味する。14世紀に宗教改革者ツォンカパ(宗喀巴)がはじめたラマ教新教ゲールク派黄帽派)に属し,ツォンカパ(宗喀巴)の甥ゲドゥン=トゥブパ(1391〜1474),の転生を継承する3代目のソナム=ギャツォー(1543〜88)に師事した蒙古のアルタン=ハンがダライの称号を贈ったのが初めであり,この系統の転生活仏を代々ダライ=ラマと呼ぶ。初代,2代は追贈されたものである。

初代,ゲドゥン=トゥブパ。(1391〜1474)

2代,ゲドゥン=ギャツォー。(1475〜1542)

3代,ソナム=ギャツォー。(1543〜88)

4代,ヨンテン=ギャツォー。(1589〜1616)

5代,ガワン=ロプサン=ギャツォー。(1617〜82)

6代,ロプサン=ツァンヤン=ギャツォー。(1683〜1706)

7代,ケサン=ギャツォー。(1708〜57)

8代,ジャンペル=ギャツォー。(1759〜1804)

9代,ルントク=ギャツォー。(1805〜15)

10代,ツルチム=ギャツォー。(1817〜38)

11代,ケートゥブ=ギャツォー。(1838〜55)

12代,チンレ=ギャツォー。(1856〜75)

13代,トゥプテン=ギャツォー。(1876〜1933)

14代,テンジン=ギャツォー。(1935〜現在)

 初代は1447年,タシルンポ寺を建立し,2代は名声高く,明の武宗は中国に招請しようとした。3代はアルタン=ハンの招きに応じ内蒙古に錫留し,ゲールク派をひろめ蒙古で客死した。4代は蒙古でアルタン=ハンの曾孫に転生してチベット入りした。この時代に内蒙古は完全にゲールク派に改宗した。

 5代はダライ政権の樹立および外蒙古のゲールク派化に成功した。彼の時代,西チベットを中心に旧教紅帽派の勢力回復を求める勢力が旧教支持のツァンパ=ハンを押し立てて,全チベットの統一を志した。5代の執権サンギェ=ギャツォーはホショット部のグシ=ハンの応援を得て1642年,西チベットを討ち,ツァンパ=ハンを殺した。その後,5代はグシ=ハンからチベットの支配権を与えられ,ラサのマルポリ丘のポタラ宮殿を増改築して治所とし,青海ホショット部とジュンガル部,ジュンガル部と清朝とのあいだの抗争をたくみに利用して政権の確立をはかった。

 6代は異色の人物で,戒律を無視してラツァン=ハンに追放され,北京へ護送される途中,1706年11月14日,青海南方裏塘の近くで死去した。翌年ラツァン=ハンイェーシェ=ギャツォーを立てて6代としたが,チベット人やククノールの蒙古人達はこれを認めず,ラツァン=ハンも1717年,ジュンガル部のツェワンアラプタンに殺された。この時期をとらえて清の康煕帝はケサン=ギャツォーを立てて新ダライとし,これを奉じて軍をチベットに送り,事実上清朝によるチベットの直接支配を始めた。1791年(乾隆56),ネパールのグルカ軍がチベットに侵入しタシルンポを占領したが,清軍はこれを撃退し,駐蔵大臣をラサに置いて支配を強化した。

 13代の時代,イギリス,ロシアの東侵政策に巻きこまれ,側近ドルジェフをロシアに派遣してイギリスを刺戟した。1903,1904年(光緒29,30)にインド総督カーゾフはヤングハズバンド大佐の英印軍をラサに侵攻させ,ラサ条約を結ばせた。13代ダライはいち早く蒙古に逃れ北京に入ったが,かえって清帝の怒りにふれ,清軍の追討を受け,今度はインドのダージリンに逃れて英国の保護を求めた。中華民国成立を期にチベットの独立を求めて活動したが,1933年(民国22)没した。14代も同様にチベットの独立を求めて活動したが,1950年(民国39),中華人民共和国のチベット解放工作がすすめられ,中共政権によりチベット自治区の主席委員に任命された。1959年(民国48)の反中国運動に巻きこまれ,中国人民解放軍のラサ進攻とともにインドに亡命し,現在にいたっている。