●玉松操 たままつみさお
アジア 日本 AD1824 江戸時代
1824〜72(文化7〜明治5)幕末維新期の国学者。玉松操は諱眞弘,通称猶海,大学頭。父は公卿山本公弘の二男(西園寺末流)幼にして醍醐無量寿院に入り,僧律改革を企て意見合わず,1839年(天保10),還俗して玉松操となる。京都において国学者大国隆正の門人となったが,大国とは学問的な意見が対立し,近江国真野に移り,門人を育成,そのもとから三上兵部や樹下茂国らが出た。その線から1867年(慶応1)ごろより岩倉具視と結びついて王政復古工作につとめ,王政復古詔勅案を作成した。維新政権成立後は,平田銕胤,矢野玄道とともに大学官(皇学所),大学寮(漢学所)を皇学所一本化を求め,尊内卑外政策の実施を求めた。1869年(明治2)9月,京都皇学所は廃止されたが,東京出仕に対し猶予願いを出し,翌1870年(明治3)3月,東京へ出て,大学中博士兼侍讀となる。同10月中博士をやめ京へ帰り,政界より引退する。それが平田派国事犯事件の端緒ともなる。不遇のうちに死去,1884年(明治17),嗣子眞幸に男爵がおくられる。