●タブー
AD
ポリネシア語の tabu または tapu に由来することばで,「禁忌」と翻訳されることが多い。太平洋を初めて横断したヨーロッパ人のキャプテン=クックが3度目の世界航海の記述のなかで最初に使って以来,広く西欧世界に知られるようになった。タブーには「聖化されたもの」とか「禁忌されたもの」の意味がある。当時の英語に「神聖なもの」と「穢れたもの」,「非日常性」と「日常性」,「正常」と「異常」,「浄」と「不浄」のように,極端にかけ離れた概念をひとまとめに表わす単語が無かったことから人々の大きな関心をひきおこし,それがまたタブーを英語として日常語化させる要因であった。その後タブーと類似の現象が世界各地から報告され,学術用語としても定着するにいたった。どんな事象がタブーとされるかは文化ごとに異なるが,それは,分娩・月経時の女性に対する儀礼的穢れ,病気や死のような身体の異変,地位や身分の隔差,経済的技術や行動のように,人間生活のあらゆる領域に及び,社会・文化の秩序全体にかかわっている。また,タブーは一般に,神聖あるいは不浄とみなされる石や食物のような事物,司祭・王・貴族・血穢の女性のような社会内の人間の範疇,神霊の宿るとされる森・湖・神社のような特定の場所に対する畏怖,警戒,恐怖の感情にもとづき,隔離や忌避のような行動でその超自然的影響力を避けようとするものである。日本でも,ある共通の禁止事項に違反したとき「バチが当たる」とか「天罰がくだる」とか「崇られる」といわれるが,そこにタブーの観念に伴う超自然的・神秘的な力に対する畏怖や警戒の態度を窺い知ることができる。このようなタブーは,コミュニティのメンバーによって共有される観念体系であり,また彼らの過去・現在・未来の事象を説明する確固とした説明原理でもあるから,タブーに違反した者は,コミュニティからの強いサンクションを伴うのがふつうである。その違反により死刑を宣告される場合もあれば,浄化儀礼の遂行だけですまされる場合もある。愛知県北設楽郡の一部には,崇りに相当する「サワリ」という概念がある。血穢中(赤不浄)の女性が神社や屋敷神の祀ってある部屋に入ったり,あるいは知らずに地の神の「頭」に杭を打ち込んだり,放尿したりすることが,サワリの原因とされる。多くは死や病気のような不幸な結果を招来すると信じられていて,もし不幸があれば巫女に浄化の儀礼を依頼する。このように,タブーへの違反は,病気や死や天災のような超自然的サンクションを伴うとされるが,逆にタブーは,病気や死のような不幸な結果を明らかにするための説明原理として利用される場合もある。【構造とタブー】タブーは神聖性と汚穢を同時に含む,それ自体,両義的な概念である。それゆえ,かつて,タブーは神聖と汚穢の区別さえ識別する論理的判断能力をもたない,非合理的な未開人の迷信にすぎないと主張された時代があった。原始的な迷信にすぎないタブーから,より優れている宗教を区別すべきだと説いたロバートソン=スミスや,タブーを「消極的呪術」であると定義して,ほかの呪術と同じように誤った因果律にもとづく無知な野蛮人の非合理的な観念であると論じたフレーザーらの,19世紀の進化主義者のタブー論がそれである。彼らが西欧優位思想の罠に陥っていた事実は否定できない。しかし,以下に述べるように,彼らの議論がまったく無益であったというわけではない。現代のタブー論へと展開する多くの萌芽をその内に含めていたのである。その代表的なものが,マレットアールのいわゆる「タブー・マナ公式」や,ロバートソン=スミスやデュルケームの聖俗二元論である。マレットはフレーザーの「消極的呪術」説を否定して,タブーはマナのような目にみえない神秘的力からの忌避であり,マナの消極的側面であると説いた。マレットのマナとタブーの相互分離論は,聖と俗の両極分離を宗教の基本に据えるデュルケームらの聖俗二元論と明らかに共通性がある。それはのちに,儀礼を,分離の儀礼,移行の儀礼,統合の儀礼の三つの過程からなるものと捉え,分離と統合の中間にある移行の状態に内在する危機的状況を回避するための装置がタブーであると論じたファン=ヘネップ,二項対立的な自然と文化の媒介項としてインセスト=タブーを据えたレヴィ=ストロースの構造人類学をへて,リーチやダグラスらのタブー論へと展開することになる。とくに,リーチの構造分析において鍵となる概念の一つは,ファン=ヘネップの提唱した人間の一生の節目に行われる儀礼,つまり「通過儀礼」における境界の概念である。リーチによれば,生物学的時間の流れ,および人間を取り巻く地理的環境は連続しているが,人間はそこに人為的な境界をつくることにより認識する。その人為的に分断された境界は,あいまいで両義的なカテゴリーなので,神秘的なタブーの性格を帯びやすい。つまり人為的に創造された非連続性=境界こそタブーの温床なのである。リーチの主張は次の発言に的確に要約されている。〈AB二つの言葉のカテゴリーがあるとして,Bは“Aでないもの”と定義され,その逆もまた真であるとき,ここにその対立を仲介する第3のカテゴリーCが現われて,AB双方の属性を共有すれば,そのときCはタブーということになるのだ。〉(E. リーチ,1976)このAとBの中間領域のもつ両義的な性質から,ふつう口に出すことをタブーとされる汚いことば(性・排泄物・糞便・尿・髪など),動物の名前に由来する侮蔑語や猥褻(わいせつ)語,あの世とこの世の中間領域である墓・神社・教会・寺院に住むとされるさまざまな奇怪な生き物などが生じるとリーチは考える。ダグラスもまた,アフリカのレレ族の分析から,センザンコウの食用がタブーとされている理由を,彼らの民俗動物分類体系に合わない,その動物の両義的な特徴に求めた。彼らにとって,タブーはいわば構造のはざまに存在するのである。
【呪術の論理とタブーの論理】フレーザーは『金枝篇』において,呪術を,[1]「類似の法則」による類感呪術,[2]「接触の法則」による接触(感染)呪術,の二つに類型化した。ところで,リーチはフレーザーのこの二つの類型化に注目して,それらが隠喩(メタファー)と換喩(メトニミー)の論理にそれぞれもとづいていると指摘した。〈類感呪術と感染呪術とを分けるフレーザーの区別は,隠喩による連合と換喩による連合の区別と基本的に同じである〉(E. リーチ,1981)。リーチのこの視点は,タブーと呪術を同一線上で論じているフレーザーのタブーの消極的呪術論を考えるうえでも重要であろう。シーフェリンが論じているように,呪術とタブーはしばしば共通の論理的基礎にもとづいているからである。たとえば,彼の調査したニューギニアのカルリ族では,卵を食べると卵の中味のように身体が柔くなるとされるので,戦士がそれを食べることは禁じられる。このタブーの論理は,獲物を多くとるので豊穣性と多産性の象徴である鷹の爪をパンダヌスの木の下に埋める呪術と同じ論理に従っている。前者は隠喩の拒否であり,後者は隠喩の実現である。つまり,呪術の論理がAとBの異なる諸領域(カテゴリー)のアイデンティティと連合とを実現する論理であるとすれば,タブーの論理はAの領域からBの領域を隔てて分離させ,さらにその距離を維持,持続させる文化的・認識論的方法である。この二つの一見対照的な論理は,しばしば同じ論理の裏返しの関係にあるのである。
〔参考文献〕E. シュタイナー,井上兼行訳『タブー』1970,せりか書房
E. リーチ,青木・宮坂訳『文化とコミュニケーション』1981,伊国屋書店
E. リーチ,諏訪部仁訳「言語の人類学的側面」『現代思想』4−3,1976