●旅(日本) たび
アジア 日本 AD
日本は稲作を中心にした農耕民が主流を占め,早くから一定の土地に定着していたように考えられているが,一方では転々として移動を繰り返していた人々もまた多かった。中世の職人像を主題にした『職人尽絵』,『職人尽歌合』にみられる職人の職種は実に多様なものがあった。たとえば毛坊主・行者・山伏・御師・唱門師・万才・巫女・万日・桂女・比丘女・遊女・座頭・瞽女・猿廻し・人形廻し・杜氏・紺屋・鍛冶・タタラ師・ロクロ師・マタギ・博労・サンカ・乞食などがあり,当時の職人像は現在のものとたいへんかけはなれていたことがわかる。いずれも共通しているのは特殊な技術をもち,百姓のように土地への依存度が高くなかったことである。したがって定まった住居をもたず,旅から旅への漂移の生活を送っていた者が多かったと思われる。そしてこのような現象は近世に入ってからもみられたことは,種々の記録や伝承によって知ることができる。『秋山紀行』は1828年(文政11)に鈴木牧之が新潟県と長野県にまたがる山村の秋山郷を訪ねたときの記録であるが,この旅の途中で秋田の阿仁地方からやってきた2人のマタギに会い話を聞いている。マタギたちは秋田から山中の道を,狩りをしながら秋山郷や群馬県の六合村,草津温泉のあたりまで来ていたという。そして山中で冬を越し,暖かくなると秋田へ帰っていった。獲物は主として川魚で,草津温泉に売りに行っていたという。奈良県吉野郡も山深いところであるが,この山中にも木地屋・杓子屋・樽丸師・曲物師・松煙屋・炭焼き・木挽き・鍛冶屋・桶屋・籠屋・大工・屋根屋など数多くの職人たちの往来があった。このうち博丸師・曲物師は芸州から,そして木挽きは信州・飛騨・出雲・和歌山あたりから,鍛冶屋・桶屋は熊野から来ていたという。樽丸師は酒樽や醤油樽の側板をつくる職人,曲物師は篩・柄杓・弁当箱などにする薄くはいだ板材をつくる職人,木挽きは今でいう製材業者である。木地屋は近江の出身であると伝えられているが,確かなことはわからない。このほかにある決まった時期にどこからともなくやって来て,一定の期間物をつくったり,魚をとったりして,またどこかへ去っていく仲間もあった。九州山地を移動し,箕や籠をつくって歩く人々がそれで,春から夏にかけて各村をまわって細工や修繕をしていたという。そして住み心地がよさそうなところに定着する者もなかにはあった。旅をしなければ成り立っていかない職業もまた多かった。越中や越後の薬売りがよく知られているが,熊野の比丘尼,阿波のデコマワシ,伊勢の太々神楽,信濃の梓巫女,越後の瞽女,そのほか万才師・猿廻し・連歌師など芸能にたずさわっていた人々がそれである。今日でも芝居の役者はドサ廻りといって地方巡業を行う一座は少なくない。また大工,左官,石工,鍛冶屋なども,もとは渡り職人が多かった。人の住んでいるところへ行って自分の芸や技術を売るのが,芸人や職人の古い姿であった。伊勢の御師や熊野の僧もお札を配りつつ,布教のために各地を歩いている。このようにしてみていくと,日本の隅々まで人々が往来し,それぞれの暮しをたてていたことがわかるのだが,その伝統は中世以前にさかのぼるものも少なくなかったように思われる。一方では旅の人をおおらかに受けとめる民衆の社会があり,旅の人が身につけている技術や知識を獲得し,自らの生活のなかにとり入れることも行われた。このようにして技術,芸能,信仰などの伝播を可能にしていったものと思われる。旅の人を受け入れる側は農耕定住している者が多かったが,この人々も数百年ものあいだ定住してきたという例は少なかったようである。定住していても出稼ぎという形で他地方へ出て行く者もあった。職人のなかでも農業基盤をもち,農閑期に出稼ぎに出るというケースが少なくなかったのである。また若いうちに広い世間に出ていろいろなことを学び,村へ帰って嫁をもらい家業を継ぐという習俗も各地で行われていた。家を出るときは夜逃げ同然で出るのだが,親たちはそれをみてみぬふりをする。若い男ばかりでなく,娘たちのあいだにもそういう習俗があった。近世に入ると講組織をつくって,社寺へ参拝に行く人も増えていく。このように旅の人の側も,それを受け入れる側も旅のつらさやありがたさを知っている者が多かった。のちに述べるように近世以降の日本はたいへん旅がしやすい国になった。それは街道や宿場が整備されていったことも大きいが,旅人を受け入れる民衆が全国的にひろがっていたことも大きかったのである。しかしながらこのような庶民の旅の様子はあまりよく知られていない。それは記録として残りにくかったことと,主要街道を通ることが少なく,民家に宿泊するか,仮屋を建てて自炊をしつつ移動していったためであった。【旅日記・紀行文】日本人の旅の様子が比較的よくわかりはじめるのは近世に入ってからで,江戸時代以降は多くの人々が旅日記や紀行文を著している。当時の旅を知るうえで史料性の高いものをあけていくと,松尾芭蕉『奥の細道』と芭蕉に随行した曽良の『随行日記』,林道春(羅山)『丙辰記行』,貝原益軒『和州巡覧記』『吾妻路之記』『岐蘇路記』『諸州めぐり西北記行』『南遊記行』,中山高陽『奥游日録』,古河古松軒『東遊雑記』『西遊雑記』,橘南谿『東遊記』『西遊記』,菅江真澄『真澄遊覧記』,鈴木牧之『秋山紀行』,吉田重房『筑紫紀行』,野田泉光院『日本九峯修業日記』,富本繁太夫『筆満可勢』,船遊亭扇橋『奥のしおり』,下見吉十郎『日本廻国宿報謝帳』,中村仲蔵『手前味噌』,河井継之助『塵壺』などが目にとまる。これをおおまかに分類すると,武士の旅,文人の旅,町人の旅,回国行者の旅,芸人の旅ということになり,立場の違い,それに伴った見方の違いが出ている。一方日本にやってきた外国人の紀行文のなかにも優れたものが多い。当時の日本の状況をスペインの耶蘇会に報告した『耶蘇会年報』『耶蘇会通信』,アレッサンドロ=バリヤーノ『日本要録』,ジョン=セーリス『日本渡航記』,ケンペル『江戸参府旅行日記』,シーボルト『江戸参府紀行』,ゴンチャロフ『日本渡航記』があり,明治に入るけれども,イサベラ=バード『日本奥地紀行』,E=S=モース『日本その日その日』などがある。いずれも当時の日本の状況を細かに観察して書かれたものである。このような紀行文を読んでみると,苦労も多かったが,日本はたいへん旅がしやすかった国であったことがよくわかる。時代は江戸後期になるが,長崎のオランダ商館付きの医師として1826年(文政9)に江戸参府旅行に参加したシーボルトは,〈おそらくアジアのどの国においても旅行ということが,日本におけるほどこんなに一般化している国はない。自分の領地から江戸へ行き来する大名の絶え間ない行列,活発な国内商業,その貨物の集散地大阪にはこの国のあらゆる地方から売り手や買い手が殺到するし,また巡礼旅行も非常に盛んである。これらすべてがこの孤立した島国の多忙な生活の原因になっている〉と記し,日本での旅がしやすいのは,参勤交代の制度のために街道や宿駅が整っていて,安全で快適な旅ができる,と述べている。
【大名の旅】参勤交代は江戸幕府が諸国の大名統制のために一定の期間江戸に滞在させ,将軍に勤仕させるという制度であった。一般に外様大名は東西の2組に分けて,1年は江戸へ,次の1年は国許で政治をとる。交代の時期は外様大名が4月,譜代大名が6月であった。関東地方に領地をもつ譜代大名は江戸と国許を2月と8月の半年で交代する。そのほか対島の宗氏は3年に1度の参勤,役付の大名は江戸常駐であった。参勤のために往来する道筋も決められており,東海道が146家,奥州道中37家,中山道30家,水戸道中23家,日光道中4家,甲州道中3家となっていた。大名が街道を往来する際は行列を組むが,その人数は大名の規模によって異なっていた。行列の先頭には牽馬が行き,次に挟箱・長柄の槍・具足櫃・種子島統・弓・伊達道具をもった集団が行く。その後に供廻りの武士,長柄傘・長刀・刀筒をもった集団。そして近習を大勢従えた大名駕籠がこれに続く。次に立傘茶弁当・槍・大名の乗替の馬・道中に必要なものを入れた長持・籠の類がこれに続いた。基本的には軍旅の形をとっているが,これが形式化され,装飾も華美になり,人数も増えていった。大藩である加賀藩などは2,000人近い行列を組んでいったようであるが,少なくとも100人から1,000人内外の行列が毎年街道を往来した。とくに東海道には国許へ帰る大名と江戸へのぼる146もの大名が,ほぼ同じ時期に行きかっていた。このほかに幕府の勅使や朝鮮・琉球・オランダ使節も,やはり行列を組んで通った。シーボルトが随行したときのオランダ使節は,オランダ人6人に対して,日本側から57名の随行者を出している。西国の大名は陸地のみでなく船を使うことが多かった。1693年(元禄6)の毛利氏の参勤交代の記録をみると,3月3日に萩を出て夕方山口着,4日三田尻着で,ここまでは陸地である。6日三田尻から船にのり,笠戸島・上ノ関・地家屋(現大島郡東和町,ここまでが毛利藩領であった),ついで備後田島・六口島・播磨室津・兵庫に定泊し,3月13日に大坂に着いている。合計8日間の船旅であった。船の旅は風まかせ潮まかせの旅であるので泊る港は定まっていなかったようである。ついで3月16日に大坂を発ち,川舟で伏見へむかい,18日朝京都着,18日正午京都を発ち,その日は大津泊り,19日石部,20日坂下,21日四日市,22日熱田は泊りで四日市から熱田までは船を使った。ついで23日赤坂,24日新居,25日袋井,26日藤枝,27日興津,28日沼津,29日箱根を越えて小田原泊,4月1日藤沢,2日川崎,3日江戸着という行程であった。この間旅の無事を祈願して各地の寺社に代参をたて,また行く先々で幕府の役人や公家に挨拶に行き,地元の町人から挨拶を受ける。その都度みやげをもち,みやげをもらったときは必ず返礼している。とくに大坂や京都では挨拶合戦の観があり,みやげ代だけでも大変な出費であった。また人数が多いために船代,宿代をはじめ旅の出費も莫大なものであったとみられるが,これが一方では街道筋を活気づけたのである。
【街道と宿場】日本におけるあらゆる旅のなかで,大名の旅が一番規模の大きなものであったが,このほかにもいろいろな人が旅をしている。近世に入って旅がしやすくなったのは江戸を中心にして街道と宿場の整備が行きわたるようになってからで,とくに東海道・中山道・日光道中・甲州道中・奥州道中の五街道は宿場・伝馬の制度が比較的よく整っていた。宿場は本陣・問屋・旅籠・茶屋など旅人の宿泊施設や休けい施設の整った町場で,荷物の輸送業務も行った。本陣は宿場のなかの第一級の旅宿で,大名・旗本・公家・勅使などの特権階級が泊った。大名の往来の多い宿場には本陣が二つあるところもあり,このほかに本陣の補助施設として脇本陣が置かれた。また大名や旅人の少ない脇街道は,本陣が運送店を兼ねたが,これを問屋本陣といった。脇街道の宿場では旅人に宿や飲食を提供するよりも,荷物の輸送や農業の比重が高かったところも少なくない。また宿場は伝馬や人足を置いて,公用で旅をする役人の便をはかった。このような宿場が日本の主要な街道に置かれ,旅人の便をはかっていたのである。北から主要な街道と宿場の数は次のとおりである。奥州街道(陸羽街道)=日本橋から函館まで118宿,羽州街道(七ケ宿街道)=奥州街道桑折から奥州街道曲川まで59宿,会津西街道(日光街道)=日光街道今市から会津若松まで11宿,越後街道(若松街道)−新発田道中=会津若松から新発田まで21宿,三国街道=中山道高崎から新潟まで31宿,または出雲崎まで34宿,陸前浜街道(水戸街道)=日本橋から奥州街道岩沼まで54宿,甲州街道=内藤新宿から下諏訪まで32宿,金沢街道(伊那街道)=甲州街道金沢から三州街道宮田まで4宿,三州街道=中山道塩尻から中山道妻籠まで14宿,中山道=日本橋から草津まで67宿,日光山例幣使街道=中山道倉賀野から日光市まで21宿,日光街道=奥州街道宇都宮から日光まで4宿,北国街道=中山道追分から寺泊まで35宿,善光寺街道=善光寺から中山道洗馬まで12宿,東海道=日本橋から京都まで53宿,山陽道=京都から赤間ケ関(下の関)まで57宿,紀州街道=大阪から和歌山まで14宿,山陰道=京都から大社まで20宿あまり,浜田から広島まで5宿,浜田から下関まで19宿となっている。街道には旅程を確認できるように1里塚を設け,道の両側には樹木を植えて,旅人が陽光を避け,休めるようにした。このような街道がほぼ全国に通じていたのである。1613年(慶長18)に来日したイギリス人のジョン=セーリスや,江戸時代の前期から中期にかけて来日したドイツ人のケンペル,オランダ人のツンベルクも,一様に日本の道や宿場はよく整備されていることをほめている。ただしその道は,彼らがよく通った東海道をさしているように思われる。
【庶民の旅】近世になると百姓・町人などの庶民の旅もよく行われるようになる。名所旧跡を訪ね,療養のために湯治場へ行き,また家内安全や商売繁盛を願って寺社仏閣へ参る旅がそれである。また物見遊山の旅で,今日の観光旅行にあたる旅も多くなっていった。先にあげた吉田重房の『筑紫紀行』はその一つの例である。吉田重房は菱屋平七ともいい尾張名古屋の商人であったが,40歳をすぎたころに隠居し,若いころから1度訪れてみたいと念願していた長崎への旅をする。当時の長崎はオランダや中国の船が出入りし,日本における外国文化導入のただ一つの拠点であり,学者・医者・商人などのあこがれの地であった。平七の旅は1802年(享和2)3月16日の未明に名古屋を出発し,6月19日に大坂の知人宅に帰りついているので合計84日間の長旅であった。出発の日の3月16日ころに〈送りこし人々猶もしたひくるを,強いておしとめてかへす。中にも内田何某其他一両輩は,嵐山の花見がてら,京まで送りゆかむとして猶も伴ひゆく〉〈あたりちかき朋友より親族の人々家人供まで,しばしのほどをだにとて送りくる〉と書かれている。当時いかに旅がしやすくなったとはいえ,未知の世界に足を踏み入れれば,辛いことや危険がつきまとっていた。そこで旅立ちの前には神仏に旅の安全を祈願し親族や親しい友人を呼んで御馳走をふるまった。これをデタチの祝い,タビダチなどと呼んでいる。このときに,生き別れになってしまうかも知れないということで,水盃をかわして見送りをした。『筑紫紀行』にも平七の旅の安全を願って,大勢の人が見送りに出ていたことが描かれている。平七は16日の夜も岐阜の実家に立ち寄って再度デタチの祝いをして19日京都着,京都では本願寺,祇園社に参り24日に出発してその日に大坂着,京都では尾張屋平蔵宅,大坂では河内屋四郎太郎宅に泊っている。いずれにしろ商売で京都・大坂に来たときに定宿にしている宿のようである。26日,道頓堀から讃岐丸亀からきていた船にのり,4月12日に周防室積に着いた。この間途中の港に寄港したときに町に出て見物し,一般の町屋で風呂に入り,船へ帰って泊っている。また播磨の室では明神社に参拝し,丸亀には2日間滞在して船頭の家に泊って金毘羅宮にまいり,またまる1日かけて宮島めぐりをしている。しかしながら船旅は風待ちのために日数がかかり,波にゆられて船のなかで寝るのがつらかったらしく,室積でおりてあとは陸路の旅となる。室積から徳山・宮市・小郡・舟木の宿場をへて4月17日下関着,途中で備中の瑜伽山に参っている。下関には2日間滞在して町を見物し,20日に船を雇って小倉に渡り,九州では苅田・中津の城下をへて,宇佐八幡宮を参拝し,四日市から彦山へむかう。彦山は九州一の修験道場である。そして佐賀・嬉野・大村をへて5月2日に長崎に着いている。名古屋を出てから46日目であった。あちこちを見物しながらのゆっくりした旅であった。長崎には17日間滞在し,長崎の町やオランダ屋敷・唐人屋敷・唐船などを見物した。また茶屋に上がって芸者遊びをしたり,遊女屋へ出入りして充分楽しんで過ごした。帰りは大宰府に参って博多から小倉に帰り,下関を渡って山陽道を上り,城崎温泉に3日間滞在して大坂まで帰った。ここで紀行文は終わっている。武士の旅にくらべると肩のはらない気楽な旅であった。平七の一連の旅のなかで興味深いことは,名の知れた名所旧跡には必ず立ち寄っていることである。途中で土地の人をこまめに訪ねているのであろうが,あらかじめ当時の旅の案内書である道中記をもっていたように思える。道中記は貝原益軒の紀行文(前出)が手本になったのではないかといわれているが,江戸時代中期になると全国の主要街道を示したものや,街道別に取り扱ったものなどが各種発行されており,とくに東海道筋を扱ったものが多い。西日本では大坂から長崎までの道中を綴った『西国筋道中記』,『西国筋航路道中記』がある。道中記は道中の宿駅名・問屋および宿駅間の距離・人足賃・駄賃,各地の名所旧跡・名物などをあげて説明したもの,さらに旅の心得,注意,旅館名などを加えたものもあった。道中記が多数発行されるほど,旅する人が増えたものと思う。次に山陽道を旅しているときはほとんど宿泊に困っていないが,九州路に入ると宿をさがすのにたいへん苦労している。宿が少ないのは旅人の往来が少ないからで,庄屋の家や商家に泊ったりしている。宿屋はあっても山陽道にくらべると粗末なものであったようである。つまり主要街道をはずれると宿屋を頼るのではなく,一般民家の世話になりつつ旅をせざるをえなくなり,それは本州でも同じことであった。また東海道筋では飯盛女を置いて客の世話をする宿が多かったのに対して,西日本の宿は客を泊めることをおもにしていたようである。平七は宿で遊ぶことはなく,茶屋や遊女屋へ行って遊んでくることが多かった。そして人々の集まる港町,宿場町,門前町などには茶屋や遊女屋があり,そこで遊ぶことが旅の楽しみの一つであった。城崎温泉では湯治場の古い姿が記されている。〈座敷を借りるのみにて,食物を自ら調えるもある。室代1廻り(1週間)3匁にて,米,味噌,薪,そのほかの諸物は,宿に出入りする商人が通いにて入るなり。又焚出しと称するあり。其は米を自らととのえて宿に付して,日に二次焚出さしむ。さすれば一汁一菜をつけて出す〉というもので,湯治客は,室だけ借りて自炊するか,米を宿にわたして食事をつくってもらう。そうすると安い経費で滞在することができた。湯銭は無料であった。このようなシステムがあったから近郷近在の人々が気軽に温泉を利用でき,また娯楽の一つとして温泉場がにぎわうようになっていく。近畿地方では城崎温泉のほかに有馬温泉,紀伊の瀬戸鉛山,湯の峯などが古くから知られており,東北地方から名前をあげていくと会津天寧寺・猪苗代地獄湯・白石の鎌先,関東では熱海・箱根・那須・塩原・草津,中部では筑摩の湯・山中準山代温泉,中国地方は玉造・吉岡,四国は道後,九州は別府・村立・武雄・嬉野・雲仙などが古くから知られていた湯治場であった。菱屋平七のように主として街道を歩き,宿場で泊るという旅をした人もあったが,脇道を歩き,民家や寺に泊めてもらいつつ旅をした人もあった。松尾芭蕉と曽良,中山高陽,菅江真澄,野田泉光院らがそれで,文人・行者といわれる人々であった。宿を提供するほうもこれらの人々から知識や情報を得ることができたのである。江戸時代も中期以降になると,神仏を信仰する人々が社寺に詣でる旅が多くなった。個人で行く場合もあったが,ふつう各村むらで講を組み,講員が掛け銭をして,毎年交代で代参者をたてる。これを代参講といい代参者は社寺に詣でて,講員全員のお札をもらって帰る。このような講が出羽三山をまつる三山講をはじめ,全国で25ほどある。また講組織が全国的に分布している伊勢講があり,このほかにも信州の善光寺・京都の本願寺・紀州の高野山・豊後の宇佐八幡など,名高い社寺に参る人も後を絶たなかった。そしてそのような社寺に参る人が300万を下ることはなかったと推定されている。そうであれば当時の人口の1割が毎年参拝のための旅をしていたことになる。参拝の道中は宿場や旅宿に泊ったが,参拝地へ行くと宿坊に泊ることが多かった。伊勢の場合は最盛期に山田には615軒,宇治に241軒の御師の宿があったというし,高野山には坊舎が2,000に達していた時期があったという。近世の庶民の旅で最も盛んであったのは信仰の旅であったといってよい。
〔参考文献〕宮本常一『日本の宿』1956,社会思想社
宮本常一『大名の旅』1968,社会思想社
宮本常一『庶民の旅』1970,社会思想社
林宏『吉野の民俗詩』1980,文化出版局
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