●煙草(タバコ) たばこ
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語源はポルトガルまたはスペイン語の tabaco,ナス科の1年生草木で,亜熱帯地域に自生したニコチアナ属。原産地はアメリカで,その種類はきわめて多く,地域により種類がちがう。喫煙用のニコチアナ=タバカム種とニコチアナ=ルスチカ種は,タバカム種が中央アメリカ,南アメリカの北部およびキューバ島に,ルスチカ種は北アメリカ東部に自生していたとみられるが,現在各国で喫煙のため栽培するのはタバカム種に限られ,寒冷地でも栽培されるルスチカ種はソ連の一部で栽培されているが,喫い味が辛いので一般むきではない。人間は古代から香りのよい草木を燃し,その煙を医療と快楽のため吸う風習はあったが,アメリカでタバコを吸う風習が始まった時期は明らかでない。1519年,スペインのコルテスが中央アメリカのメキシコ地方を植民地として以来明らかになったのは,ユカタン半島で古典期マヤ族が築いた文化(300〜900)ではすでにタバコが重要な働きをしていたことである。古代からアメリカ原住民は,タバコの葉をくゆらして立ち昇る香煙に神の聖霊が宿ると信じ,煙を神に捧げたり,呪術的行為と冠婚葬祭の行事にのみ喫煙していた。また,成分のニコチン作用による鎮静と刺激効果を,医療用に粉末・煎じ汁にして内服し,消毒用に膏薬として外用に利用していた。嗜好用の喫煙は特殊な権限にある者に限られていた。北アメリカの原住民には,部族間の争いがおこると,戦争開始の通告には無装飾のパイプ,講和を願うときは羽根で飾ったパイプを,相手方に贈る風習があったが,しだいに嗜好用となり,タバコの葉の利用はパイプと葉巻による喫煙以外に,葉を噛む,葉を粉末にして嗅ぐ方法も用いられていた。ほかの世界への普及は,1492年イタリア人のコロンブスに始まる。彼はスペイン女王の後援を得て,西回り航海でアジアに達する目的で長い旅路に飽きるころ,大西洋のバハマ諸島のうち現在のサンサルバドル島を発見し上陸した。コロンブスが原住民へ友好の印に贈ったものへの彼らからの返礼品のなかに,タバコの葉が含まれていた。これがタバコがヨーロッパ人へ伝わった最初である。付近の島々を探検中,コロンブスのある部下はタバコの喫煙を経験した。彼は帰国後もその習慣を身につけていたが,故国の教会は土人の悪習を排斥し彼を投獄した。新大陸の発見はその後各国が競って新領土獲得につとめる結果を生んだ。スペインは中・北アメリカ,ポルトガルは南アメリカ,フランスはカナダ方面に達していた。タバコの医薬的効果と喫煙などの風習の報告もあり,種子をもら帰り珍しい観賞用植物として栽培する者がいた。1561年,ポルトガルのリスボン駐在フランス大使ジャン=ニコが,帰国の土産に王妃に献上した粉末タバコが,王妃の頭痛の治療に役だったことから,フランス国内で栽培が始まり,ニコの名にちなみタバコの学名はニコチアナと名づけられた。同年イタリアのローマ法王庁使節クローチェもポルトガルから帰国し,法王に薬草の種子として献上し,1565年,イギリスのホーキンスがフロリダから薬料としてもち帰るなど,タバコはしだいにヨーロッパに知られていく。各国と新大陸との航海が頻繁になるとともに,船員たちが現地の風習になじみ,喫煙もまた故国の港町に伝えられた。陸路ではヨーロッパ中部と北部へ,海路では地中海沿岸諸国に伝えられた。東洋の諸国へはポルトガル船がアフリカ南端を迂回してインド洋に達し,フィリピン諸島へはスペイン船が太平洋を横断航海に成功し,ジャワ・スマトラ方面はオランダ船がそれぞれ伝えた。日本へは1570〜95年(元亀,天正,文禄年間)ポルトガル船のいわゆる南蛮船が伝えたとの説があるが,その裏付けとなる史料はない。1601年(慶長6),フィリピンの修道師ジェロニモ=デ=カストロが平戸に上陸し,桃山で病気静養中の徳川家康と会見し,その席でタバコの種子と医薬を献上したのが,唯一の史料であるとされている。朝鮮へは日本から,中国へはフィリピンと福建省の交易から,現在の中国東北部へは中国と朝鮮から,シベリアへは今の中国東北部とロシアから伝わり,ベーリング海峡を渡りエスキモーに伝わった。約1世紀をへて地球を一周しアメリカ北部に達したのである。【各国における喫煙】イギリスは国内政情から新大陸進出に遅れていた。スペインは新大陸発見以来,同地から珍しい産物をヨーロッパへ輸入し,各国と交易して利益を得ていたが,タバコはそのなかでも重要な商品となっていた。1565年ごろ奴隷貿易や海賊的取引を行っていたホーキンスが,フロリダで喫煙を知り,さらに1573年,ドレークが西インド諸島から喫煙によいニコチアナ・タバカム種のタバコをもち帰った。1586年,サー=ウォーター=ラーレーが指揮したヴァージニア植民地開発に失敗し,本国に引き上げた人々がパイプ喫煙していたことから,ヨーロッパでは比較的早い時期からパイプによる喫煙が流行した。新大陸のパイプを模倣したクレーパイプの製造は,パイプによい陶土を産出する地方で製造された。パイプ喫煙の流行に拍車をかけたのはダンディな高官として知られた上記のラーレーである。皇帝ジェームズ1世(在位1603〜25)はタバコを悪魔の贈りものといい,喫煙は人間の威厳を傷つけ,医薬に効果があるとは迷信で,タバコの輸入は国費の乱費であると嫌い,1604年議会で自らタバコ排撃の演説を行ったが,議員の賛同を得ず,やむなく輸入税を高額に引き上げた。国内でのタバコ栽培を禁じ,法令を守らぬタバコ畑を騎兵隊が踏みにじるなどの騒ぎもあった。皇帝が嫌悪したタバコの輸入税によって国庫収入が増加し,国費が潤沢になる皮肉な結果となったが,ロンドンでは薬店・食料品店・雑貨店でタバコを売る店が6,000軒に達した。スモーキング=クラブが設立されて社交場となったり,居酒屋で酒を注文する前に,クレーパイプ1本を求めて一服するのが常識になった。喫煙は身だしなみよく鼻から煙を吐くのが紳士の作法であると,喫煙教室もできるブームがあった。オランダはイギリスとヨーロッパ大陸とのあいだの仲介的位置にあるため,船員がまず喫煙を始め,ついでライデン大学の学生が喫煙し国内にひろがると,イギリスを模倣してクレーパイプが製造されるようになった。1665年,ヨーロッパに疫病がまん延すると,どこの国でもタバコに殺菌力があるといわれ,婦人と子供まで喫煙し,フランスから伝わった嗅ぎタバコと噛みタバコまで取り入れた。医者も患者を診察したり疫病で死んだ人の葬式に会うと,帰宅途中でもタバコを用いていたという時期がある。フランスも1600年代になると喫煙が流行し,国王ルイ13世(在位1610〜43)が,高官・紳士・僧侶が鼻から煙を吐くのは見苦しいといったため,人々は喫煙をやめて嗅ぎタバコを用い始めた。淑女は美しいスタイルで嗅ぎタバコを用いるのが,上流婦人の身だしなみとなり,上流階級は嗅ぎタバコのみを使用し,庶民はパイプをくゆらせた。タバコの消費が増加したため,1629年,フランス政府はタバコ輸入に高額の税を課し,6年後に薬用以外にタバコの自由販売を禁止したが,それでもやまなかったので,1674年,ルイ14世(在位1638〜1715)は,タバコの国内栽培・製造と販売を政府事業とする専売制を施行した。このため国庫と王家の財産は豊かになり,また戦費にもなった。当時の喫煙用パイプは,木製はパイプのボウル(火皿)が焦げやすく,金属製は熱の伝わりが速いので,各国とも多くは白土または赤土で素焼のクレーパイプを使用していた。しかし,クレーパイプは,値は安かったものの折れやすく,1700年代のある家では1週間に4本ほど消費したとの記録があり,タバコ代とともにパイプの購入費が家計を圧迫していた。フランスはナポレオン戦争(1793〜1815)が始まって,スペインでパイプ不要の葉巻を知り,フランス軍が進出する地域に伝えたため,各国で葉巻喫煙が流行し,パイプがすたるのではないかと思わせる1時期もあった。ヨーロッパでは現在でも葉巻の需要が多い。1800年代の中ごろ発見された,つつじ科の灌木のブライアの根が,木質が固く緻密で折れず焦げが少なく,また木理(きめ)が美しいのでパイプの理想的材料とされ,フランス東部ジェラ山脈に近いサンクロードの町が原木生産の中心地になっている。パイプ喫煙に必要な道具は,刻んだタバコを入れる壺とパイプの灰を押さえるタンバーであった。外出にはパイプケースと小形の火ばさみを必要とした。暖炉の火を大形の火ばさみではさむか,ロウソクの火でタバコに火を付けるかせねばならず,マッチが出現するまでは苦労があったようである。中部ヨーロッパではキリスト教の新・旧教の対立,各国王家の確執から,ボヘミアを中心に三十年戦争(1618〜48)が始まり,イギリス・オランダ・スペイン軍はライン河を越え,スカンジナビア軍は北方から進出し,ドイツ=オーストリア軍と進軍・撤退を繰り返して戦った。この結果戦場となった地域に両軍が交替で駐屯し,パイプ喫煙を住民に伝えた。村々の娘たちはパイプを口にする兵士を粋なスタイルとみて好意をもち,パイプをもたない兵士は人気がなかったという。喫煙者の移動により,いたるところへ喫煙が普及したが,オーストリア政府と宗教界の長老は,喫煙を悪風として断固禁止し,法を犯す者は厳罰に処すと発令した。しかし,効果がないばかりかタバコを栽培する者が増えたので,政府はあきらめてタバコ専売業務を指定する契約専売へと切りかえた。1723年,オーストリアの貴族がトルコを旅行し,メイシャムという白色粘土状の鉱物をもち帰り,パイプのボウルに利用した。メイシャムでつくったパイプは使いこむと美しい深紅色となるため流行した。のちに彫刻を施した工芸的なパイプとなったが,素手でもつと指紋がつきやすいのをおそれ,白い手袋をはめて使用する貴族的なパイプであった。ドイツでも各都市で禁煙令を出したが守られず喫煙が流行した。皇帝フリードリヒ1世(在位1701〜13)はタバコ会議を催した。高官とその夫人は正装をして座につき,長いクレーパイプで喫煙し,吸わない者もパイプを手にして列席した。次の皇帝は高官ではなく遊び友達を集めてパイプ=クラブをつくり,気ままな喫煙を楽しんでいた。こうした雰囲気から婦人にも喫煙がひろまり,女性も男性と権利は同じであると主張していた。そののち喫煙による火災が多くなると,嗅ぎタバコが流行し始めた。皇帝フリードリヒ2世(在位1740〜86)は上着のポケットに嗅ぎタバコを常時入れて使用していたので,顔と衣服は嗅ぎタバコの粉末でいつも汚れていたという。当時は洗濯女まで喚ぎタバコに夢中で,町の人々の鼻はいつも汚れていた。嗅ぎタバコ入れが流行し,手ごろな贈りものともなり,大臣に贈るワイロは,2個の大臣,3個の大臣と嗅ぎタバコ入れで格づけがされていた。このように,1700年代はフランスを中心にどこの国でも嗅ぎタバコが流行した時代であった。中部ヨーロッパは山林が多く,パイプの火の不始末による山林火災が多かったので,パイプのボウルに金属製の蓋を付けたのもある。中部ヨーロッパには,ジャーマンパイプ,チロリアンパイプなどステム(柄)の長いパイプで,ボウルと吸口を切離し,ホルダーに差し込んで接続し,横形だったパイプを縦形にして吸うパイプがある。ボウルを交換できるので,ブライアのほか陶磁も用いられ,狩猟,風景,動物,美女のポートレート,ヌードもある色絵付きで,収集家の収集対象になっているが,何かの記念に特別デザインをして贈りものにする場合もあった。イタリアへは,スペイン,ポルトガル,イギリスなどの船員が各港町へ,ドイツ・スイスの旅行者が北部方面へ部分的に伝えていた。1615年,法王庁の大僧正が諸国遍歴で喫煙を覚え,帰国後,つねに流行の先端を行きたい貴族と僧侶に伝えたため,たちまち全国にひろまった。喫煙反対の声もあったが政府は同調せず,タバコの輸入税を早期に課し予期せぬ高額の収入を得ていた。宗教界から流行していたので喫煙は教会内部でも行われた。祭壇といわずいたるところ吸殻が捨てられ,神聖なミサの儀式を行っているときでも平気で嗅ぎタバコを用い,突然くしゃみをして聖餐を祭壇上に吐きだし,信者が怒りだす始末であった。法王は教会内でのタバコの使用を禁じた。信者からは僧侶の喫煙に反対する意見も出たが,この新しい風習を僧侶に限り禁止する権利があるかと異論を吐く人もいた。トルコへは,1600年代の初めイギリスの貿易船が伝えた。イスラーム教国は教義により飲酒を厳禁され,国民の嗜好はコーヒーとアヘンに限られていたところへ,新しくタバコが加わり流行したが,賛否両論があったのは各国と同じであった。皇帝ムラード4世(在位1623〜40)は我が強く残忍な変質者で,自己の意志に反するものには非道きわまる処刑を行っていたが,喫煙者も許さず,タバコ禁煙史上最も過酷な刑罰を与えていた。それは死刑および全財産の没収という重罪で,皇帝は課税によらず,財産没収で私腹をこやしたのである。彼には変装して市中を歩く性癖があったが,夜になると自ら人の集まる場所へ行き,違反者の発見につとめ,タバコをくゆらす人がいると,戸外に連れだしただちに虐殺した。ムラード4世の残忍性はいよいよ増し,ついに喫煙する外国使臣にも及んだ。絞殺してから鼻と耳を削ぎ,傷口へ送り状を釘づけして国外へ追放する非道ぶりであった。彼はさらに増長し部下の喫煙を発見すると,その場で絞首・斬首・胴体4つ切り・手足をつきつぶすなど蛮行をつづけ,家臣は日夜戦々恐々とし不安な生活をおくっていた。皇帝の蛮行のおかげでトルコでは煙の出ない嗅ぎタバコが多く用いられた。ムラード4世の死後8年を過ぎた1648年に禁煙令が撤回され,国民はようやく自由に喫煙ができるようになり,独特の香り高い葉タバコが生産されるにいたった。ペルシア(イラン)はトルコとの長い戦争で喫煙が伝わったが,イスラーム教の教えを守りトルコと同じく禁煙令が厳しく,重い罰金刑(ときには死刑)を課せられた。にもかかわらず国民は男女ともタバコを好み,イスラーム教寺院のなかでも喫煙するようになったので,しだいに禁煙令も厳しくなり,違反者には鉛を溶かして咽喉に注ぐ残虐な死刑が侍つことになった。禁煙令の根拠になったのは女性が不妊症にかかり国民の出産率が減少し,国家に重大な影響を及ぼすという説である。過酷な刑罰も効果はなく喫煙はやまなかった。座る生活もあるペルシアでは,タバコの煙を水を通して吸う大型のパイプ,カリアン(kalyun,水がめの意)をつくり,数人が街頭で吸う風俗は中近東地方の風物詩になっている。ソ連(ロシア)へは,タバコはイギリスからバルト海経由で,またトルコから黒海をへて南北から伝わった。しかし喫煙が普及したのは三十年戦争以後ポーランドからである。為政者はどこの国でも反対するが,ロシアもまた同様であった。モスクワでは教会内部はもちろん,礼拝が進行中でもかまわず喫煙が行われていた。僧侶がタバコの臭いのしみついた礼服で聖像に近寄るのを,反対者が同席するのに忍びなかったという話は事実に近い。当時のパイプはタバコを詰めるボウルが大きく,立ち昇る煙の量も多かったのである。1635年,皇帝ロマノフ1世(在位1613〜45)は,「喫煙は死罪に価す」と禁令を発した。国民と外国人とも喫煙と嗅ぎタバコを問わず,また売買用も所有すべからず,違反者は重罪とし仕置場へ送り厳罰に処し,違反を重ね改心のない者はシベリアへ追放して全財産を没収する,という厳しい内容であった。しかし,違反者は多く喫煙違反裁判所が設置されるほどであった。処刑は背中の皮がなくなるほどのむち打ち,唇の縦裂き,嗅ぎタバコは鼻を削ぐなど残酷なものであった。過酷な処刑の原因には,火災の多発があり,国民が刑を受けても禁煙しない理由は,厳寒な国土にあった。喫煙による体温の維持が寒さをやわらげ,ニコチンの麻酔的作用が安眠をうながすため,喫煙が必要だったのである。火災は火のついたパイプをくわえたまま寝こみ,寝具から木造家屋に火が移ることが多く,原因不明の火災もすべて喫煙の責任にされていた。ピョートル1世(在位1682〜1725)が帝位につき,西欧を視察して帰国後禁煙令を解除した。アフリカへは,地中海沿岸地方の国々からと,大西洋とインド洋に面する方面は,スペインからの奴隷買いの商人,南部は喜望峰を迂回して東洋方面にむかうポルトガル・オランダ船により,それぞれ伝えられた。貧しい生活にタバコが唯一の慰安となり,パイプも利用できる粗末な材料を使ってつくり,民族的な喫煙具がつくられた。ヤシの実の殻でつくる水パイプのナルギレ(ココヤシの実の意)があり,中近東方面から中国にかけて使用する水パイプのカリアンとフーカー(アラビア譜で丸い壺の意)の原形で,アラビアの商人が中近東へ伝えたものである。中国へは,同国がポルトガル人を排斥していたため,1575年以後,フィリピンのマニラと福建省との交易から,薬用として伝えられていた。1600年代の初めのごろから,陶酔の一服,酒後の一服,空腹の一服,食後の一服がタバコの四功に挙げられ,酒に代え茶に代え終日喫煙するも飽かず,流行するようになった。また,客の接待に欠かせぬものになっていた。農民のタバコ栽培による収益が五穀より多く,五穀の収穫が減少したので,皇帝が禁煙令を発すると,辺境守備の軍隊は,煙だらけになった。タバコはマラリアそのほかの医薬として特効があり,喫煙は唯一の楽しみであると,禁煙令に軍隊が反対したので,禁令に違反する兵士からタバコを取り上げては,辺境の軍隊に廻したからである。1715年,ヤソ会のフランス宣教師は,中国と友好を結ぶため,康煕帝に数々の贈りものをしたが,そのなかに美しい嗅ぎタバコ入れがあり,医薬のほか臭気を防ぐ効果があると上流階級に流行し,金属,玉石,べっ甲,ガラス,陶磁器そのほか,山海で得られるあらゆる物質を加工し装飾を施した。工芸的な容器がつくられ発達した。刻みタバコを吸うキセルは,日本とは趣向が違い吸口に七宝を施したり玉石,象牙などを用い,西域から伝わった水パイプは,タバコ入れと掃除道具を付属しながら,金属製で小型の優美なものを完成した。日本では『徳川実紀』1605年(慶長10)のくだりに〈蛮船はじめて煙草をのせ来る。京人その種をうへて。専らその煙を吸う事風尚となり天下にあまねし。この事益少なく損多きをもて。令をくだし禁ぜられる〉とあるように,このころから喫煙が始まった。キセルは南蛮人の伝えた土製のパイプを模造し,鉄,銅でつくりあるいは雁首と吸口を金属でつくり,中間に竹を用いたとある。吸い過ぎによる病気と頓死,火災の原因になると,しばしば禁煙令が出され,タバコの売買に罰則もあったが守られずに終わった。寛永年間(1624〜43)になると茶・酒とともに社交や遊びの場所で必要になっていた。香道具をそのまま転用したり,有合わせの盆に香炉を火入れ代わりに用いたりしていたが,しだいにタバコ盆があつらえられてきた。各家庭では来客をもてなす最初の心づくしに,まずタバコ盆を出すのが礼儀となり,「おさきタバコ」といって,訪問先のタバコを吸うのに,茶席の作法が準用されたときもあった。やがてタバコ入れは男性唯一のアクセサリーとなり,それぞれ携帯するようになって,訪問先でも自前のタバコを吸うようになった。タバコ盆を人前に出したり,自前のタバコを吸うようになると,タバコ盆・キセル・タバコ入れとも,その人の趣向が表れるところから,江戸文化の発達に伴い,日本独自の喫煙風俗と喫煙具が,つくられていった。各藩ではタバコの売買に課税を始め,幕府はタバコの栽培による米の収穫減少を憂い,本田畑への栽培を禁止したが,享保年間(1716〜35)になると諸国物産の奨励という理由から禁令がなくなった。タバコは初め薬用といわれたが,上流階級の南蛮ブームによる嗜好から,国内でタバコの栽培が広がると値が下がり,庶民へもひろがっていった。京都を中心に珍しいキセルを持つことに優越感をもつ人がふえ,街頭で喫煙する姿が当時の風俗画に描かれている。幕府はぜいたくな喫煙具の製作をしばしば禁じたが,庶民の経済的成長によって守られず,明治・大正時代(1868〜1925)には,その道の大家による喫煙具がつくられ,美術工芸品にまで達していた。明治初年,外国から紙巻タバコが輸入され,キセル不要の喫煙が始まり,国内でその製造が始まると刻みタバコの需要がしだいに減って,歴史のある喫煙風俗は時代劇でその名残りをとどめるのみとなった。タバコ盆は茶席で客をもてなすシンボルとなり,現在でも使用されている。
【タバコの製造史と現代の製品】各国で喫煙用タバコは,初め葉をより,縄状にし,それを切断して売っていた。パイプ用は縄状のタバコをほぐして葉片にして用いていた。1800年代には工場で葉を棒で叩き細かい粒状にし,ふるいを通したものを袋に詰めて売るようになった。嗅ぎタバコは縄状のものをおろし金で擦りおろし,粉末にしていたが,需要が多くなると,工場で葉を石臼でひき香料を配合して売った。噛みタバコは甘い樹液を出す木の丸太に穴を開け,葉を叩きながら詰める作業を数回行い,2カ月ぐらいたってから丸太を割り,甘味がつき固型になったタバコを取り出した。葉を野生の蜂蜜に浸して丸く固め,穴を開けた丸太に詰めておき,乾燥後丸太を割り取り出すという方法もあった。葉巻はただ葉を巻いて吸っていた。火のついた灰が口に飛びこむので,初めは小石などを詰めていたが,しだいに固く巻き形を整えるようになってきた。以上は原始的な製法で,現代では上等な葉巻を除き,いずれも機械生産である。紙巻きタバコは,メキシコの原住民がトウモロコシの薄皮などで巻いていたが,1750年ごろ,ブラジルで薄紙に巻かれていたものがメキシコに伝わり,統治者のスペイン人が故国へ伝えた。しかし,当時は喫煙はパイプという趣味的な介在物がすでにあり,葉巻もあったので,小さな紙巻きを使用する人は少なかった。1830年,スペインからフランスヘ伝わり,パリの青年が吸い始めた。同国では1842年に手巻きで工場生産を開始,それが地中海沿いにトルコへさらにロシアヘ伝えられ,イギリスではクリミア戦争(1854〜56)でロシア軍から捕獲したトルコ葉の紙巻タバコから始まる。帰還した軍人がロンドンのタバコ店に注文するようになり,手巻きで製造が始められた。それがアメリカへ伝わり,1882年巻上機が完成した。腕のよい職人が1日10時間で3,000本を手巻きするのに対し,巻上機は40人分に相当する量を製造したので,大量生産により紙巻きタバコの値は下がった。現在の高速巻上機は1分間に5,000本を巻き上げている。日本へ紙巻タバコが伝えられたのは明治維新(1868)前後で,1872年(明治5)に東京の土田安五郎が国産葉の口付き紙巻きを製造した。1878年(明治12)外国製の紙巻きが初めて輸入された。紙巻きタバコの製造が盛んになったのは1887年(明治20)ごろからで,口付き紙巻きの「天狗煙草」を岩谷商会が盛んに宣伝し,両切り紙巻きは京都の村井兄弟商会が,外国模倣といわれながら,タバコの嗜好を変えていった。1904年(明治37),戦費の調達と外国資本が国内タバコ市場を独占するおそれを理由に,タバコの製造と販売を政府が行う専売制が施行された。この専売制は1949年(昭和24),公共企業体の日本専売公社,1985年(昭和60)から日本たばこ産業株式会社が引き継いでいる。紙巻きタバコは各国に普及されたが,喫煙の主流になったのは第一次世界大戦(1914〜18)後である。国により喫い味に嗜好の差があって,各国で特色のある製品を製造していたが,1913年(大正2)アメリカで発表された各種の特徴ある葉をブレンドした紙巻きタバコが,第二次世界大戦(1939〜45)でアメリカ軍が各国に進出して以来,世界のあちこちで好まれるようになった。1950年ごろから喫煙と健康問題が提議され,ニコチンとタールを吸着する,フィルター付きが紙巻きタバコの主流となり,フィルター付で喫い味に特徴のある製品が各国で製造されている。