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●田沼時代 たぬまじたい

アジア 日本 AD1767 江戸時代

 江戸時代中期の重商主義の全盛時代,田沼意次・意知が側用人,老中として政権を掌握した1767〜86年(明和7〜天明6)の時代をさす。

辻善之助の田沼時代観】1915年(大正4)に刊行された辻善之助の『田沼時代』は田沼意次の収賄汚職観を打ち立てている。これはシーメンス事件のごとき状況の影響があった。さらに「まいなゐ島・まひなゐつぶれ」の図は田沼意次のことをかいたものではない。これは島津のマルニジュウノジ※注1※と考える方が正当である。そして辻の典拠とするものは決して信頼のできるものではない(大石愼三郎『江戸時代』1977,岩波書店)。こうした事実よりして辻の誤りは明確である。と同時にその描く時代像も,今では幕政上の宝暦〜天明期として注目をひき,この時期は豪農と世直し層が対立し,惣百姓一揆が広域人民闘争として展開し,世直し一揆へと移行しはじめている。それと同時にこの時期は,近代化の起点ともいうべき重商主義政策がとられ,開国近代化論の先駆者が出現している。とくに田沼は祖法墨守の役人でなく,祖法の修正の上に,米中心の経済政策基調を転換していることに注目したい。

側用人政治の復活】吉宗の退陣のあと,小便公方家重の出現で大岡忠光のごとき側衆登場,そのあとを追うように田沼意次が家重の小姓振出しに出世,怜悧で吏僚的才能をもつため栄進,1767年(順和4),側用人格昇進,1772年には老中,1785年に相良5万7千石領主となる。その上,意次の開放的性格は多くの人々を屋敷に出入させ,家格や身分を問題とせず,人々を平気で近づけている。こうした先例無視・格式無視は,保守的門閥層の反感を招いている。しかし旗本御家人は町人に同化し,風俗の上でも武家・町人の区別はあいまいとなり,事勿れ主義が処世の方法となっている。そのためか素行不良や勤務怠慢により免職・改易を受けるものが少なくなかった。

【流通統制の強化】田沼が積極的な経済政策を打出す契機は,幕府財政の悪化に起因する。幕府の年貢収納高は落ち込み,明和になるとその傾向を強め,安永末年より再び落ち,天明3年・6年の飢饉で破滅的状況へ追いやられている。そのための倹約令や救済復興の土木政策では救えず,公費節約の意図ではくみとめられぬため,一方では,積極的な営利政策を展開して,生産物地代の増徴をどうしてもせざるを得ない。そのため農民の石代納闘争は一層熾烈となり,米納より労賃の節約になると述べて訴訟闘争に踏み切る。かくして幕府は石代相場を中心として,三都中心の中央市場価格維持に力を尽くしている。とくに在郷市場や在郷町人の経済進出のおさえ込みをはかり,そのため周辺の国訴闘争を引きおこすこととなった。田沼政権は,在地の商品流通機構を直轄都市の株仲間掌握によっておさえ込みをはかり,流通網としては陸上のみでなく水上も取り締り,河岸問屋仲間の公認によって,その統制をはかっている。田沼の重商主義は,貨幣機能を増大し,その変動を左右したため,田沼政権と結ぶ特権商人層,両替商の癒着が着目され,その政権批判をやかましくさせている。とくに公金貸付政策が江戸富商に支えられ,大坂商人との結びつきが金融政策で強められ,いよいよ批判を拡大させた。

【重商主義貿易政策】外国貿易への積極政策は,長崎貿易の支払いを銅に替え,3割は俵物で渡している。この支払いに当てる銅山乱伐・産銅の独占によって儲ける者が出,そのほかにも人蓼座,章脳座,明礬会所等ができ,諸株への冥加・運上政策によって,田沼は国内産業開発,近代化政策を採用した。そして大規模な印旛・手賀沼開発による干拓,常総の物資の江戸へ運ぶ便宜の確保をめざしたが失敗,外国貿易振興→俵物生産拡大→蝦夷地開発・東北沿岸開発で,オランダや中国貿易拡大,列強の東アジア進出に対し,近代化政策で積極対応をし,開国進取の方向さえ打出している。こうした鎖国体制の方向こそ,ジョン=ホールによって近代化政策と評価を受けた最大要因である。

〔参考文献〕大石愼三郎『江戸時代』1977,岩波書店

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