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●立山信仰 たてやましんこう

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 富山県新川郡立山町に聳える立山に対する信仰。今日,立山と呼ぶ場合には,その主峰雄山とその周辺の山々をさし,雄山の頂上には与力雄命,伊弉冉尊,剣山には平力雄命をそれぞれまつっているが,古くは毛勝三山から鳶嶽,薬師岳にいたる72峰と通称される山々と,8,008谷と誇示される広い範囲をさしており,『万葉集』には〈多知夜麻〉と記されている。雄山神は863年(貞観5)に正5位下,889年(寛平1),従4位下の神階が与えられているように古くから中央にも知られており,なかでも立山地獄の信仰は古代以来立山信仰の中核に位置してきたと称しても過言ではない。

 たとえば『今昔物語』には〈越中国の書生の妻,死後立山の地獄に堕ちる語〉〈越中の国の僧海蓮,法華を持して前世の報を知る語〉など都合4篇の立山関係説話が載せられているほか,『本朝法華験記』の〈越中立山女人伝〉には,〈かの山に地獄の原ありて,遥に広き山谷の中に,104の出湯あり,浮き穴の中より涌き出づ,岩をもて穴を覆ふに,出湯麁(あら)く強くして,巌の辺より湧き出づ。現に湯の力に依りて,覆える岩動揺す。熱き気充て塞ぎて,近づき見るべからず。その原の奥の方に大きなる火の柱あり。常に焼けて爆(はため)き燃ゆ〉とその様子を伝えている。こうした立山の景観をもとに地獄の信仰が形成され,さらには雄山山頂の阿弥陀の浄土,法華経の功徳,地蔵信仰などが説かれてきた。それを全国に流布させたのは廻国僧,聖,修験などであり,彼らが立山曼荼羅をもち,絵解きを行ったことはよく知られているところである。

【立山の修験】立山への入峰には2つのコースがあった。一つは常願寺川をさかのぼり,岩峅寺(いわくらじ),芦峅寺(あしくらじ)をへて,弥陀ケ原に出るコースであり,ほかは大岩山日石寺を拠点として上市川をさかのぼり,大峰山,大辻山をへて大日岳へ登るコースである。前者は天台系,後者は真言系の修行者の登るコースであった。しかし大岩日石寺を拠点とした集団は早くに衰退し,近世期には常願寺川流域の岩 寺,芦峅寺が立山信仰の拠点となって,信仰の布教と参詣者の勧誘に当たってきた。岩峅寺,芦峅寺はともに衆徒・社人・中語・百姓からなる宗教集落を形成していたが,岩峅寺は雄山神社の前立社壇が設けられており,立山外宮と呼ばれ,主として頂上本社をまつり山中を支配し参詣者から山役銭を徴収するとともに,出開帳による勧進方法をとっていた。一方,姥堂や閻魔堂がまつられている芦峅寺は立山中宮と称され,衆徒は全国に檀家を有して冬期間配札にまわっていた。その際,護符・お守り・山絵図などのほか,血盆経・霊薬・経帷子・お香などを持参していた点は注目されよう。

姥神信仰と女人救済】若狭国小浜の比丘尼止宇呂(とうろ)と従女2人が女人禁制を犯して立山に登ろうとして,壮女が美女杉に,童女が禿杉に,そして止宇呂が姥石に化したという伝説はよく知られているところである。しかし立山信仰においては女人禁制よりも立山地獄とともに女人救済が強調されてきたところに大きな特色がある。その中心的存在が芦峅寺にまつられる姥堂であり,女人堂の役割を果たしてきた。姥堂には本尊の姥三尊および日本66州をかたどって66体の姥像がまつられ,毎朝48本の燈明をたてて勤行が行われてきたという。姥堂の祭祀で最も注目されるのは秋彼岸の中日に行う布橋潅頂であろう。これは姥堂と閻魔堂とのあいだを流れる谷川にかかる橋に白布を敷き,その上を死装束を着けた信女が渡り,姥堂へ〈浄土入り〉するもので,全国から多数の信女が群集するという。この行事は,擬死再生,来世の信仰,女人救済を端的に示している。このほか,立山の御師が廻際に際して行う絵解き,配付する血盆経などによって女人救済が説かれてきた。

〔参考文献〕高瀬重雄『白山・立山と北陸修験道』1977,名著出版

同『古代山岳信仰の史的考察』1969,角川書店