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●鑪 たたら

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 砂鉄を,木炭を焚いた土炉で精錬する古式製鉄施設の総称。もともとたたらとは,『日本書紀』や『和名抄』に「蹈鞴(とうはい)」とあるように踏んで風をおこす装置,つまり一種の鞴(ふいご)を意味するものであったらしい。したがって製鉄のみに関するものではなかった。『宇津保物語』などにも,鋳物師がたたらを踏んで白金・黄金を熔かすという意味の描写がある。『日本山海名物図会』には,その図も掲げられている。しかし金や銀は蹈鞴でなくても容易に熔けるが,製鉄を大仕掛けにしようとする場合には,これでないとなかなか熔けない。そのため次第に鉄専用のものになり,ついに,たたらといえばもっぱら製鉄所を意味するものとなり,文字も「鑪」を用いるようになった。なお,送風装置としての蹈鞴は江戸時代の中ごろまでで,以後はこれを改良した天秤鞴になっている。

【鑪の歴史】古代・中世の鑪が,どういうものであったかはよくわからない。ただ若干の口頭伝承や最近ようやく多くなってきた遺跡の検出例などから推察すれば,古くは野鑪といって,露天でほとんど自然通風だけで吹く,すこぶる簡易なものであったらしい。これを行う職能の徒も分業ではなく,後世いう鍛治や鋳物師が自ら山野を渡り歩いて砂鉄を採取し,精錬し,加工するというものであったらしい。早くから太政官に採用された金工や,また中世に武将の城下や社寺の門前などに集中していた金工たちは,もっぱら鍛造や鋳造だけを担当したのであろうが,そうではない大多数の金工の徒のあいだには,久しく鍛冶・鋳物師・鑪師の区別はなかったものと思われる。しかし,近世になって土地所有の区画が明確になると,彼らも山野を勝手に歩くことができなくなる。一方,各地に武将から転進した山林地主が成長したが,そこがたまたま砂鉄埋蔵地帯であれば,たいていの山林地主がそこで自ら製鉄を始めるようになる。そのため,多くの金工の徒は漂泊を止め,その鑪経営者のもとで職人として定着するようになった。こうして山林地主を経営者とし,鑪師を職人とする企業体制が成立する。この体制による工場の一画を,山内(さんない)といった。鑪の機構が単純であった時代には,全国各地にみられた。今日,多々良(たたら)とか金鋳(かない)という地名の残る所は,それがすべて製鉄の遺跡ではないにしても,多分にこの砂鉄の鑪に関係している。しかし,近世になって製鉄の企業体制が確立し,かつ,大量生産地への集中が可能になると,その地域は限られてくるようになる。『和漢三才図会』などに見る鉄産国は,ほとんどが中国地方の砂鉄埋蔵量の豊富な国々に限られている。

【中国地方の鑪】近世の中国山地で発達した鑪製鉄には,大きく二つの方法があった。一つは,真砂(まさ)と称する磁鉄鉱分を主とする黒い砂鉄を用いておもに鋼を製造するもので,これをケオラシ※注1※押法という。土炉を築いて乾燥させ,操業してケオラシ※注1※を取り出すまでには3昼夜を要した。いま一つは赤目(あこめ)と称し,赤鉄鉱分を主とする砂鉄を用いて,おもに銑鉄を製造するもので,これを銑押法(ずく)という。この方法は4昼夜を要した。この,3昼夜なり4昼夜なりの一操業を一代(ひとよ)といい,1山で1年間に大体60代吹くのを普通とした。職人は長を村下,次を炭坂といい,補助者として炭焚・手子(てご)がいた。さらに天秤鞴を踏む番子がおり,これは,ときには流れ者などが携ることもあった。そのほか山内の住人となると,炭焼や輸送を担当する馬子もいた。大きな鑪になると,家族も含めつねに200人くらい人間がおり,山内の長屋に住んでいた。そのうち村下・炭坂だけは,賃銀のほかに親方から扶持をもらうという仕組みであった。なお当時は,鑪に付属するものとして大鍛冶屋と称するところもあった。ここには大工,左下(さげ),手子などの職人がいて,鑪でできた銑やケオラシ※注1※の粗悪品から炭素を抜いて地鉄,つまり錬鉄を製造する仕事を担当した。こうした鑪,大鍛冶が,中国山地にはことに多かった。しかし幕末のころになると,巌鉄の利用や洋鉄の輸入が始まり,それに押されて鑪はしだいに下火になっていった。最後まで残った出雲地方の鑪でも,1923年(大正12)にはついに閉山した。その後,一時復興したが,また中絶し,現在はただ1カ所で,ごく短期間ずつ操行しているにすぎない。

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