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●高島秋帆 たかしましゅうはん

アジア 日本 AD1798 江戸時代

 1798〜1866(寛政10〜慶応2)幕末の兵学者・砲術家。名は舜臣(きみおみ),字は茂敦(しげよし),号は秋帆,通称四郎大夫。長崎町年寄高島茂紀の三男。坂本天山の創始した荻野流砲術を父について学び,師範役となり,1823年(文政6)ズーフの後任スチュルレル大佐に西洋砲術を学んだ。そして1832年(天保3)ごろより非常な熱意をもって西洋最新の火器とその付属品,製造機械これに関する蘭書類を求め研究,1835年(天保6)臼砲鋳造に成功(佐賀藩),西洋砲術の採用を上申。学ぶことの遅れた幕府も1841年(天保12)出府を促し,江戸近郊徳丸原にて演習を行い,全体的勝利の合理的集団発想がとられた。1842年(天保13)鳥居耀蔵の讒訴により逮捕され,翌年伝馬町に投獄されたが1853年(嘉永6)のペリー来航を契機に釈放された。釈放の日に嘉平と改名。放免後間もなく開国論を起草,それが翌1854年(安政元)の日米和親条約に大きな影響を及ぼした。1855年(安政2)品川砲台を完成させ御普請役となり,1857年(安政4)講武所砲術師範役を命ぜられ,以後洋式砲術の普及に力を注いだ。1866年(慶応2)6月病死,69歳であった。〔参考文献〕有馬成甫『高島秋帆』1972,吉川弘文館(3版)