●タウヒード
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アラビア語の「一つである」という意味の動詞 wahada の第II型派生動詞 wahhada「一つにする」あるいは「一つと認める」の動名詞。イスラーム神学の術語としては,イスラームの基本的教義である「神の唯一性」のこと。『コーラン』にはタウヒードの表現はでてこないが,〈汝らの神(アッラーフ)は唯一なる神〉(第22章34その他),〈神(アッラーフ),かれのほかに神はない〉(第64章13その他)の教義を定式化したものである。神が唯一で無二であるということは,神が何かあるものから進化したり,また何かあるものに進化するものではない,ということである。〈天地の創造者は,おまえたちのために男女の対を,また家畜にも雌雄の対をお造りになられた。そのうえで,おまえたちをふやしたもう。神にくらべうるものは何一つない〉(第42章11)という章句の意味は,被造物人間・家畜などは男女雌雄の対によって生み生まれて繁殖していくが,神ご自身は対のある存在ではなく,生みも生まれもしない永遠なる唯一者(第112章)である,ということである。だからこそ,イスラムにおいては神以外に礼拝の対象となる偶像の類は何一つなく,キリスト教徒のいう「神の子イエス」に対して非難するのも(第9章30,31),このタウヒードの教義からである。しかしイスラームの学者は,このタウヒードの教義の擁護のためにたがいに論争しあっている。8世紀の中ごろから10世紀の中ごろまで栄えた合理主義神学のムータジラ派は,神の「属性の否定」と「創造されたコーラン説」という,いわばイスラームにおける最初の神学論争をおこした。この派の教義も実のところタウヒードを合理的な解釈で擁護しようというものである。『コーラン』にはイスラームの学者のいう「99の美名」が神の属性として現れる。神は「見」「聞き」「怒り」「喜び」「歩き」「座る」。そのほかにも人間と同じように描かれる。伝統的なイスラームの学者は,これら神の属性をそのまま認めたが,ムータジラ派は神の属性を認めず,もしも神の属性を認めるなら,神と人間とのあいだに何かの共通性を認めることになり,〈神にくらべうるものは何一つない〉というタウヒードに矛盾するとして神の隔絶性を強調した。そして属性として表現されているものは何の実在性ももたず,神の本質のさまざまな比喩的表現にすぎないとした。また伝統的イスラームの学者たちは『コーラン』を神とともに永遠な神の言葉そのものであるとしていた。これに対してムータジラ派は,天使ガブリエルがムハンマドに神の言葉を啓示した時点で『コーラン』が出現するなら,これは時間のなかでつくられたものであり,永遠性はないという〈創造されたコーラン説〉を出す。もし『コーラン』が永遠なる神の言葉であるなら,神のほかに永遠なるものを並置することになり,タウヒードに反すると主張する。この説はカリフ,マームーンによって827年に公認され,ムータジラ派の勢力がアッバース朝内で支配的になったことがある。これに対してスンニー派神学のアシュアリーは,神の属性の具体性についてはムータジラ派と同意見で,神の「手」はあくまでも比喩的に力を表現しているとするが,まったく属性を否定するのでなく,神の超越性に矛盾するものではないことを論理的に説明せねばならないとする。また『コーラン』は言語や音声という点では創造されたものであるが,『コーラン』に盛られた意味そのものは永遠であり,神の言葉そのものであるとし,タウヒードに反するものではないと主張する。ムータジラ派が異端とされて以来,このアシュアリー派の教義によってスンニー派神学が確立されることになる。初期の代表者スーフィー,ジュナイド(910年没)はタウヒードを次のように分類している。まず,ただ神の唯一を儀礼的に告白する民衆のタウヒードがあり,次いでイスラームの学者のタウヒードで,最後にスーフィーのタウヒードがくる,スーフィーのタウヒードとは,自己の意識が神のなかに完全に消滅した忘我の状態(ファナー)で,形式的にも内面的にも完全なものという。