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●台湾総督府 たいわんそうとくふ

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 日本帝国は日清講和条約によって1895年(明治28)に台湾を領有し,1945年(昭和20)の敗戦まで50年余にわたって台湾を支配した。台湾総督府は現地における最高の統治機関であり,庁舎は首府台北市に設けられた。

【総督】統治の頂点にいたのが台湾総督であり,初代の樺山資紀を皮切りに,最後の総督安藤利吉まで19代を算した。初期(1895〜1929)は陸海軍中将または大将たることを要件としていたが,中期(1929〜36)には文官にも途が開かれ,事実文官がずっとその座を占めた。後期(1936〜45)にいたり,時局を反映して総督の座は再び武官の手に移った。台湾総督は法制上,本国政府部内に置かれている中央主務官庁の指示・総督を受けるが,遠隔の地にあるゆえ,実際上,覇絆は緩やかであった。総督は行政・立法・司法の3権を一身に集めていたのみならず,初期では軍令面で中央統帥部に直結し,内閣総理すら享受することのなかった軍令権を持つ。中期以降軍令権は新設の台湾軍司令室に移った。台湾総督はあたかも一国の専制君主のごとき大権を擁していたため,台湾人は総督を“台湾の土皇帝”と称した。

【総務長官】総督統轄下の総督府にあって,民政部門での最高首脳は,民政局長官民政局長民政長官の職称変更をへて1919年(大正8)から総務長官と称された。歴代長官は事務取り扱いを入れて計18人であり,その在職期間は総督に比してやや長い。歴代の武官総督は軍事以外の運行を長官に任せたこともあって,その存在はきわめて重要であった。歴代長官のうち,最も突出しているのは8年余(1898〜1906)にわたってその座にいた後藤新平であり,日本の半世紀にわたる台湾支配と各種建設の基礎を築いたといえる。比較的に地味ながらも下村宏長官(1915〜21)も大きな足跡を残した。

台湾総督府評議会】1896年(明治29)に総督の諮問機関として評議会が設置されたが,その会員は高級官僚のみであり,1921年(大正10)にようやく内台民間人が加わった。だが制度的には,意見を開陳するのみであり,1930年(昭和5)にようやく建議権が与えられた。評議会には総督を監督する権限はなく,むしろ総督の監督を受けることにおいては終始変わらなかった。

【台湾人の抵抗】日本の台湾支配に対して,台湾人は最初の7年間を熾烈な武力抵抗で塗りつぶし,このために約3万の台湾人が命を落とした。散発的な武力抗日運動は1915年(大正4)までつづいたが,徹底した弾圧の結果,爾後はほとんど影をひそめ,台湾議会設置運動,台湾文化協会などの政治運動がこれに代わった。しかし台湾人政治運動諸団体も満州事変前後に治安維持法の嵐のなかで解体され,“穏健”な団体ですら,日華事変におよんで解散に追い込まれた。

【建設】総督府治下における衛生状態の改善,交通・通信網の発達,教育の普及,米・糖生産の躍進に加えて,軽工業の発展は第二次世界大戦後の台湾の産業化に著しく貢献した。

【日本人一色の統治機構】地方行政区域は最終的には台北・新竹・台中・台南・高雄の5州と花蓮港・台東・澎湖の3庁となったが,州知事・庁長は終始日本人がこれを占めた。市伊も同様である。総督府に属する高等官1,444人(1943)のうち,台湾人は30人以下にすぎず,台湾人の警察人員はすベて巡査以下である。公立中学の校長に任命された台湾人はなく,国民学校ですら,分教場を入れて4人のみであった。

【総督府の解体】敗戦により,総督府官史は,他の在台日本人と共に,1945年(昭和20)末から翌年4月にかけて本国に引き揚げ,総督府は1946年5月31日に勅令第287号をもって廃止され,諸官は辞令を用いずして自然退官になった。

〔参考文献〕黄昭堂『台湾総督府』1981,教育社日本歴史新書

許世楷『日本統治下の台湾』1972,東京大学出版会