50音順    検 索

●台湾 たいわん

アジア 中華人民共和国 AD 

 中国,福建省と台湾海峡を隔ててある島。台湾本島・澎湖島以下の属島78からなる省も形成する。現在は中華民国政府の統治下にあり,台北市が政治・文化・経済の中心地となっている。台北市の人口は,244万人(1983)である。省都は台中市。

【地理】本省の面積の3分の2は山岳地で,3,000m以上の高山が62ある。中央を走る中央山脈も,平均2,000m以上の標高の山を擁している。おもな河川は,下淡水渓156km,曽文渓141km,濁水渓165km,淡水河130kmなどである。台北盆地・台中盆地・台湾平野はおおむね西にあり,台湾経済の中枢もなしている。本省中部を北回帰線が走り,高温多雨で,年平均気温は,台北で最低でも1月に15.2℃である。こうした状況から,茶・サトウキビの栽培が盛んで,米は2毛作である。

【住民】原住民のインドネシア系である高砂(高山)族と,明末以後に移住してきた漢族からなる。高砂族は平地に住む漢族とは言語・習慣を異にするが,平地に住むものは多く同化吸収されている。漢族は全体の90%以上を占めるが,福建・広東などのほか第二次世界大戦後移住してきた本省人などの分別がある。もっとも早く渡来した福建人は数も多く,海岸平野の比較的良好な土地を占めている。

【歴史】台湾に人が住みついたのは比較的古く,すでに先史時から遺蹟が確認されている。様相を大別すると,中国大陸系と南方文化系に二分でき,前者の遺蹟からは黒陶型・紅陶型・彩陶型に分類でき,各種の石器も出土する。これに対して南方系には巨石を用いた石造住居や石棺などがみられる。しかし,この台湾が歴史の上で明らかになり,重要な意味をもつようになるのは比較的遅い。名前すらも明らかでなく,『三国志』の夷州・『漢書』の東鯤が,台湾もしくは台湾を含む諸島か否か判っていない。隋ごろから元末・明初頭までは,流求・瑠求・琉球などと呼ばれている。ちなみに沖縄を琉球と呼ぶのは明初頭からで,以後は台湾を小琉球と呼んでいる。明末には海賊がこの地と関係をもつようになり,しだいに歴史の上に姿を現すようになるが,何といっても大航海時代の開幕によってヨーロッパ人が東アジアに姿を現したのが台湾の歴史に大きな一頁を加えることとなった。ヨーロッパ人の東漸,日本人の海外進出の中で,台湾はオランダ・スペインの係争の地となり,1622年オランダがタイオワン(Tayovan台南市安平)を占拠し,まもなくゼーランディア(Zeelandia)塀を築いたのである。以後,オランダ人は台湾経営と布教につとめ,一方大陸からその中国人渡来も奨励したので,開発が著しく進んだ。しかし,明−清交替期に明の再興を夢みた鄭成功が,1661年4月末に来襲し,翌年2月に陥落せしめるに及んでオランダ支配は終わりをつげた。鄭成功は本格的台湾の経営に乗りたしたものの中途に倒れ,鄭経が後を受けた。しかし,清が遷界令を施行したために打撃を受け,鄭氏の支配は3代22年間で終わった(1683)。清朝は鄭氏打倒後も台湾を支配したが,政策も妥当でなく安定性を欠くものであった。しかし,この時期台湾の開発がすすみ,清末に漢人が50万戸,250万人に達したとされている。清朝末期の政治的動揺は台湾にも及んで,英・米・日の諸外国勢力が進出したが,1894年の日清戦争の結果,下関条約(1895)で日本に割譲された。台湾の官民は台湾民主国を樹立して独立を宣言したものの,日本の台湾経営に圧倒され,20世紀初頭にはほぼ全島を支配されるにいたった。以後,日本支配に対する抵抗があったものの,日本の支配は1945年の敗戦まで継続された。日本の敗戦により,台湾は中国に返還され,国民政府が進駐したが,その後の国共分裂・中華人民共和国の成立は,台湾を対中共戦の基地とすることとなって今日に及んでいる。

01