●第四共和政 だいよんきょうわせい
ヨーロッパ フランス共和国 AD
パリ解放(1944年8月)後の9月,ド=ゴールはフランス共和国臨時政府を改組し,全国抵抗評議会から1名とその主導権を握る共産党から2名を入閣させた。愛国民兵も共産党書記長トレーズの指令によって解散された。1945年10月に国民投票・国民議会選挙を実施,憲法制定議会が設置された。議席の大半を共産党・人民共和派・社会党が占め,ド=ゴール首相のもと3党政治が始まる。全国抵抗評議会綱領(レジスタンス綱領)にもとづき,ルノー自動車会社・4大銀行などが国有化されたが,政治体制をめぐり執行権強化・権威主義体制を主張するド=ゴールと,議会・政党優位制をとる社・共両党との対立,また軍事力削減に反対したド=ゴールの首相辞任(1946年1月),人民共和派の保守化,社会党の反共産党姿勢の強化など,レジスタンスを軸とする3党連立政治の亀裂が深まっていった。1946年3月のチャーチルの“鉄のカーテン”演説,1947年3月のトルーマン宣言による封じ込め政策など冷戦の本格化のなかで,同年11月,社会党ラマディエ内閣は共産党を閣外に追い,ここに3党政治は終了した。共産党と,反共産主義・強力な政府実現のための改憲を旗印に右から登場したド=ゴール派のフランス国民連合(1947年3月結成)との中間に位置する,第三勢力(社会党・急進社会党・人民共和派)が,3党政治に代わる中道政治を展開する。マーシャル=プラン受け入れのおかげで,経済復興のためのモネ=プラン(1947年3月以来実施)が効果を上げ,1950年に工業生産は戦前最高水準に近づく。西欧連合(1948年3月)・北大西洋条約機構(1949年4月)への加盟を通じて,フランスはアメリカを盟主とする反ソ=ブロックに包摂されてゆき,1951年4月には,シューマン=プランにもとづくヨーロッパ石炭鉄鋼共同体が成立して欧州統合への具体的一歩が踏み出された。しかし反ソ=ブロックへの包摂は,アメリカの希望とフランスの不安との交錯する西ドイツ再軍備問題を表面化させる。1950年10月にプレヴァン内閣が欧州軍設置による西ドイツ再軍備回避を内容とするヨーロッパ防衛共同体構想を提案するや,実質的再軍備とその背後のアメリカへの反対が噴き出し,植民地問題と相まって政府は不安定となる。1945年8月の日本軍降伏とともに蜂起を通じて誕生したヴェトナム民主共和国は,フランス連合の一員に加えられはしたが,1946年12月以後インドシナ戦争が始まった。ジュネーブ協定(1954年7月)による停戦を実現したのはマンデス=フランスである。彼はまた,国民議会に批准を拒否されたヨーロッパ防衛共同体の代替であるパリ協定の調印(1954年10月)・批准(12月)を達成した。しかし北アフリカの植民地のうち,チュニジア・モロッコの独立(1956年3月)によって残ったアルジェリアでの,1954年11月以来の民族独立戦争の事態をマンデス=フランス・モレ以下の諸内閣は打開しえないまま,ド=ゴールと第五共和政へとうつった。