●大名 だいみょう
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平安時代後期より鎌倉時代にかけて,多くの名田(みょうでん)を所有し,多数の家子・郎党を従えた名主を大名と呼んだ。南北朝時代より室町時代にかけて,管国の地頭・国人を被官化して領域支配を強化した守護を守護大名といい,室町時代末期より安土桃山時代,いわゆる戦国時代に守護大名に代わって台頭した領域支配者,または新しく変貌した守護大名を戦国大名という。しかし一般的に大名という場合,江戸時代,幕藩体制のもとで将軍に直属し,1万石以上の藩領をもつ近世大名をいう。【語義と起源】公地公民を基本とする律令制度が解体すると,有力農民による耕地の私有化が進み,自己の名前や仮名(けみょう)を付けて所有を明示した。これを名田(みょうでん)といい,名田所有の有力農民を名主(みょうしゅ)・田堵(たと)と呼ぶ。また名田所有の大小によって大名・小名と呼んだ。11世紀初期成立の藤原明衡著『新猿楽記(しんさるがくき)』に〈三君夫出羽権介田中豊益,偏耕農為業,更無他計,数町戸主,大名田堵也〉とあるように,数町・数十町の名田を所有し,『平家物語』に生田の森の平家の陣に攻め入らんとする武蔵国の住人河皮太郎が第次郎に〈大名はわれと手をおろさねども,家人の高名をもって名誉す。われはみづから手をおろさずはかなひがたし〉と忠告するように,大名は多くの名田とともに多数の家子・郎党ら家人を従え,武力をもつ地方豪族であった。鎌倉幕府はこれら大名・小名と呼ばれる地方豪族を御家人(ごけにん)として掌握した。謡曲『鉢本』に〈鎌倉へ勢の上るといふはまことか,なにおびただしう上るとや。おうさぶあるらん,東八か国の大名小名,思ひ思ひの鎌倉入り,さぞ見事にてや侯ふらん〉とある。
【守護大名】1185年(文治1),源頼朝が義経逮捕のため各国に有力御家人を守護として任命し,大番催促・謀反人・殺害人検断のいわゆる“大犯三カ条”の権限を与えた。鎌倉時代末期になると御家人の経済的困窮に伴い,守護に帰属する御家人が増えた。さらに鎌倉幕府の制度を取り入れた室町幕府は,1352年(正平7・文和1),兵糧米調達のため近江・美濃・尾張の寺社本所領・国衙領の年貢の半分を御家人に与える半済法(はんぜいほう)を実施し,全国に及び,その管理権が守護に与えられることによって守護の管国内の権限は強化され,御家人・国人たちを被官化して管国の領域支配が進んだ。これが守護大名の出現である。おもな守護大名としては,足利氏一族の斯波氏(越前・尾張・遠江など)・畠山氏(河内・紀伊・能登など)・細川氏(摂津・阿波・讃岐など)・今川氏(遠江・駿河)・一色氏(丹後・若狭)や外様の山名氏(但馬・因幡・丹波など)・赤松氏(播磨・備前など)・大内氏(周防・長門など)が代表的である。とくに山名氏のように,一族が全国60余州の6分の1に当たる11カ国の守護を兼務して“六分一殿”と呼ばれるものもあった。しかし守護大名は,幕府の任命によって守護として存続できたのであって,管国によってはたびたび交代が行われた。また幕府も有力守護大名の支持によって成立が可能であり,ここに将軍と有力守護大名の連合政権といわれる室町幕府の特徴がある。一方,管国にあっても被官化した国人たちを完全に家臣としたわけでなく,その基礎となる土地所領も領国一円に及ぶものではなかった。このため国人一揆をはじめ離散謀反が生じ,次の下剋上の戦国時代に移行する。
【戦国大名】領国を経済的にも軍事的にも完全に支配することができなかった守護大名に代わって,新しく出現したのが戦国大名である。前の守護大名が幕府によって任命された守護であったのに対し,戦国大名は,かつての守護大名から新たに変貌した六角氏(近江)・今川氏(駿河)・武田氏(甲斐)・島津氏(薩摩)など,守護代や国人領主であった織田氏(尾張)・朝倉氏(越前)・毛利氏(安芸)・長宗我部氏(土佐)など,また他国よりの流れ者と伝えられる斎藤氏(美濃)・北条氏(相模)など,その出身は多様である。北畠氏(伊勢)・姉小路氏(飛騨)のように公家出身の戦国大名もあった。これらの戦国大名は,もちろん地域・年代によって相違があるが,守護大名と違って領国の一円的支配を行ったところに特徴がある。経済的側面としては,守護大名が荘園に依存していたのに対し,荘園制を否定して土地と人民を直接的に支配し,検地を行って貫高制(かんだかせい)により領国の生産力を掌握したことである。貫高は土地の年貢高を銭の貫文に換算して,その土地の面積表示としたもので,すでに鎌倉時代よりみられるが,戦国大名は貫高を基準にして,従来荘園制においては複雑であった本年貢・加地子得分などを一元化し,家臣の知行地も貫高によって定められた。北条氏のように,家臣の義務としての軍役・普請役なども貫高によって定められた史料もみられる。また楽市楽座を定めて領国の商業の発展をはかるほか,社寺などの戦国大名以外の市場支配を排除した。軍事的面としては,直接兵力の強化をはかった家臣団の形成である。戦国大名の直臣を有力家臣に預けるといった寄親寄子制(よりおやよりこせい)や,家臣団を集め常備軍を置いた城下町,「今川仮名目録」,武田氏の「甲州法度」,「結城氏新法度」など戦国家法(せんごくかほう)がみられる。これら全国制覇をめざした戦国大名の合戦は織田信長の後を受けた豊臣秀吉が1590年(天正18),北条氏を滅ぼして一応の終止符を打ち,1600年(慶長5)関ケ原の戦い,1615年(元和1)大坂落城をへて,徳川氏を頂点に安定した幕藩体制のもとに新たな近世大名が生まれた。
【中世の大名文化】権力を掌握した守護大名・戦国大名はともに文芸・芸能を享受し,その権威を高めることとなった。ただし,守護大名は京都に館を構えて居住し任国しなかったこともあって,足利将軍と同様に,古典的な中央の公家文化を吸収して,大名独自の文化を形成するにはいたらなかった。1467年(応仁1)応仁の乱以後,京都が衰退すると公家や僧侶をはじめ文化人・芸能者たちは,戦国大名や国人領主の庇護を求めて下向し,各地に都の文化を伝播することとなった。大内氏の周防の山口・武田氏の若狭の小浜・今川氏の駿河の駿府などには,水墨画の雪舟・連歌師宗祇・歌人の冷泉為和たちが下向した。こうした戦国大名の文化は安土桃山時代になると,狩野派の障壁画に代表されるような豪華絢爛とした文化を生み出すこととなった。また九州の大友氏・大村氏らは,渡来するポルトガル人・スペイン人を歓迎し,積極的に南蛮文化,キリシタン文化を取り入れた。
【近世大名】江戸時代,幕府より1万石以上の知行地を与えられ,将軍に直接奉公の義務をもつ藩主を一般に大名という。これに対し,1万石以下で御目見の家格を旗本,御目見以下を御家人という。大名の家臣には1万石以上の者もあるが,将軍からは陪臣となる。大名は徳川氏との関連から,徳川氏一族の尾張徳川氏・紀伊徳川氏・水戸徳川氏を親藩(御三家),関ケ原の戦い以前より徳川氏に従っていた譜代,関ケ原以後徳川氏に従った外様に分けられる。譜代大名は,外様に比べると石高は低いが,幕府内で老中・若年寄など重要な役職を占め,所領も関東から東海・畿内に多かった。外様大名は,戦国大名や織田・豊臣の家臣であった大名が多く,前田氏(加賀)102万石,島津氏(薩摩)77万石,伊達氏(陸奥仙台)65万石のように石高は高いが,所領は東北・九州など辺境の地にあった。これら大名領は,家康・秀忠・家光3代のあいだに改易・国替が行われ,福島氏(安芸広島)や本多氏(下野小山)のように有力大名が没落したが,その後しだいに安定し,中期以後は家格も固定化した。まず領国や居城によって,1国以上の前田(加賀・能登・越中)・島津(薩摩・大隅)・毛利(周防・長門)・池田(因幡・伯耆)・松平(越前)・伊達(陸奥)・山内(土佐)などを国主または国持大名,それに準ずる準国主,城郭を居城とする城主,城主に準ずる城格主,陣屋を居とする領主の五つに分けられ,江戸城内の詰間(つめのま)によって大廊下(御三家)・溜間・大広間(国主・準国主ら)・帝鑑間(譜代)・柳間(外様)雁間・菊間(領主)のように分けられた。幕府の大名統制法としては,1615年(元和1)徳川家康による武家諸法度(ぶけしょはっと)があり,築城や徒党の禁止,婚姻の許可制,参勤交代などを定め,多少改定はあったが,将軍の代替りごとに大名に読み聞かせられた。また大名の妻子は江戸在住を義務づけるなど,幕府は大名を押さえようとし,大名も幕府に恭順して存続をはかった。
【近世の大名文化】中世の大名文化は独自の文化を生み出すよりも,都の文化を地方に伝播する役割を果たしたが,近世の大名文化は積極的・主導的な役割をもつ。それは古代以来の文化の担い手であった公家や大社寺の勢力がまったく衰退する一方,近代社会のような大企業が出現しない時代にあっては,幕府や諸藩を含めての大名こそが文化を維持するものであった。まず大名は,自藩の学問推進と藩士の教育機関として藩校(はんこう)を設けた。岡山の花畠教場・会津の日新館などは寛永年間に創設,萩の明倫館・米沢の興譲館などが有名である。授業内容は武術と漢学であったが,幕末になると洋学・医学などが加わり,明治以後の新しい学制では中等学校として受け継がれるものもあった。大名には,古典書籍の収集につとめるものもあり,前田氏の尊経閣文庫・水戸徳川氏の彰考館・島原松平氏の松平文庫などが現在でも残っている。また『大日本史』の編纂をはかった水戸の徳川光圀をはじめ,前田綱紀・上杉治憲ら学問に熱心な大名がいた。
【廃藩置県と大名華族】1871年(明治4),廃藩置県が行われると旧藩主であった大名は東京に移住し,家禄を与えられ華族の身分となった。明治維新当時の大名の数は270余家といわれる。華族の爵位としては将軍徳川氏・島津氏・毛利氏の公爵をはじめ,家格に応じて多くは伯爵・子爵が授与された。
〔参考文献〕『岩波講座日本歴史』7・8・10,岩波書店
小和田哲男『戦国大名』教育社
永原慶二編『戦国大名論集』1〜18,吉川弘文館