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●太平洋戦争 たいへいようせんそう

アジア 日本 AD1941 昭和

第二次世界大戦のうち、アジア・太平洋地域において、日本が一方の主たる当事者として、米・英・オランダ・中国等と戦った戦争で、1941年(昭和16)12月8日に始まり、1945年8月15日に日本の降伏により終結した。

【中国への侵略】1937年7月7日の蘆溝橋事件をきっかけに、中国軍とのあいだに軍事衝突がおこり8月15日から日−中間の全面戦争にまで拡大した。当初、日本側は短期決戦の見通しでいたが、中国側は抗日民族統一戦線を結成し、徹底抗戦の構えで臨んだので、戦争はしだいに長期化し、泥沼に入り込んだような状態になっていった。戦争が長びくにつれ、日本経済は徐々にその影響を受けるようになり、経済統制を行わざるをえない状況に追い込まれていった。

【米英との対立】日中戦争継続のために戦略上必要な資源の入手と、中国に対する援助物資のルートを断ち切るために、ヨーロッパにおけるドイツの軍事的優位に追随する形で、東南アジアへの進出を企てた。しかし、このことはかえって米・英との対立を深刻なものとさせ、米・英・中国・オランダの4国はいっそう結束を強め、日本に対する包囲陣(ABCD包囲陣)を形成することになった。

【戦争の勃発】1941年11月5日の御前会議において、12月1日までに対米交渉が成立しない場合は、対米英オランダ戦争を決意し、12月初めに武力を発動することを決定した。11月末の日米交渉におけるアメリカ側の非妥協的な条件の提示により、日本側の開戦の方針がかたまり、12月1日の御前会議においてこのことを正式に決定した。12月8日午前2時(以下日本時間)に日本軍はマレー北部に上陸し、午前3時19分に日本機動部隊がハワイの真珠湾攻撃を開始した。午前4時に駐米日本大使がアメリカ側に最後通牒を手渡し、対米英宣戦の詔書が発せられた。一方、米・英も対日宣戦布告を行い、以後4年間にわたる本格的な全面戦争が始まった。

【南方諸地域への侵攻】1942年までに、日本軍はあらかじめ準備していた作戦計画に従い、戦局の主導権を握って有利に戦争を進め、東南アジアと太平洋の広範囲の地域を占領下に置いた。占領または進駐したおもな地域は次のとおりである。タイ(1941年12月)・グアム(1941年12月)・ウェーキ島(1941年12月)・香港(1941年12月)・マニラ(1942年1月)・クアラルンプール(1942年1月)・シンガポール(1942年2月)・パレンバン(1942年2月)・バンドン(1942年3月)・ラングーン(1942年3月)・バターン半島(1942年4月)・マンダレー(1942年5月)。日本はこれらの地域を確保し、ここから得られる資源により自給自足体制をつくりあげ、米・英との長期戦に備えようとした。

【連合軍の反撃】1942年4月18日に、米軍機が東京を初めて空襲した。6月に、ミッドウェイ海戦において、日本の連合艦隊は米艦隊に敗れ、以後日本海軍は海洋主導権を失い、戦局は連合軍側に有利に転回した。1942年8月から1943年初めにかけて、ガダルカナル島攻防戦が行われ、結局ここから撤退した。以後、連合軍の反攻がいっそう激しくなっていったのに対し、日本軍は補給路を断たれ、しだいに戦力を失っていった。

【中国戦線】開戦後、米・英の極東における根拠地の一つであった香港に対する攻撃を行い、1941年12月25日に占領した。重慶の国民政府に対する作戦としては、第二次長沙作戦が行われ、1942年1月4日に長沙の大部分を占領した。同年4月ごろから重慶・成都などの四川省の要地を占領する計画が立てられたが、南方方面における戦局の変化により、実施には移されず、中国戦線では膠着状態がつづいた。終戦時まで、中国大陸には八路軍に対する掃討戦や占領地の治安維持等のために、100万人を超える日本陸軍部隊がくぎづけにされていた。

【日本国内の戦時体制】日中戦争が長期戦に発展したため、国内経済を戦時統制経済に切りかえることを目的とした「国家総動員法」が、1938年4月1日に公布された。経済統制と並んで思想統制も拡大し、社会主義者だけにとどまらず、自由主義者にまで弾圧の鋒がむけられていった。このような戦時経済体制の進行により、激しいインフレーションが進行し、国民生活に深刻な影響を及ぼした。しかし、総動員体制下の軍需産業は、政府の手厚い保護により巨額の独占利潤をあげることができた。1940年には全体主義的国民組織としての「大政翼賛会」がつくられ、国民に官僚統制を押しつけようとした。そして、さらに国民思想の統一を進めるために、1941年12月に「言論出版集会結社等臨時取締法」が公布され、軍部独裁体制を強化した。1944年には、男子総人口の10%、男子労働人口の17%が軍隊に動員されたので、生産労働力確保のために、女子・少年・学生・生徒、さらには朝鮮人徴傭者や捕虜までもが動員されて、生産活動にたずさわることになった。しかし、生産活動は縮小し、とくに農業部門が労働力不足の影響を強く受け、農産物の供給量が減少したので、食糧不足が深刻化し、国民生活を脅かすようになった。食糧以外の生活必需品も切符配給制になり、必要な物資を手に入れるためには行列をしなければならないようになった。

【日本軍の敗退】ミッドウェイ海戦以来守勢に立った日本軍は、しだいに連合軍の反抗により後退を余儀なくされていった。時間をおってみれば次のとおりである。アッツ島守備隊全滅(1943年5月)、キスカ島から撤退(1943年7月)、中部ソロモン敗退(1943年8月)、ニューギニア主要基地敗退(1943年9月)、ギルバート諸島マキン・タラワ両島の守備隊全滅(1943年11月)、マーシャル諸島クエゼリン・ルオット両島の守備隊全滅(1944年2月)、トラック諸島空襲を受け基地としての機能を失う(1944年2月)、サイパン島守備隊全滅(1944年7月)、グアム・テニアン両島の守備隊全滅(1944年8月)、インパール作戦撤退(1944年7〜10月)、ビルマ・雲南方面の日本軍全滅(1944年9月)、レイテ沖海戦により海上決戦力を失う(1944年10月)、レイテ作戦終結(1944年12月)、硫黄島の守備隊全滅(1945年3月)、沖縄戦(1945年3〜6月)、ラングーン陥落(1945年5月)。

終戦工作】1944年6月に、北九州がB29により空襲を受けて以来、本土はB29による絶え間ない無差別爆撃を受けるようになり、軍事施設・軍需工場のみならず一般民衆も甚大な被害を受けるようになった。とくに東京は、1945年3月、4月、5月の大空襲により一面の焼野原になってしまった。空襲による死者は、終戦時までに31万人にものぼった。空襲に加え、補給路の封鎖、資材・労働力の不足などにより日本経済は麻痺状態におちいり、国民生活もいっそう困窮の度を深め、士気も低下していった。このような事態に立ちいたって、政府も戦争終結を真剣に模索しはじめ、1945年6月にはソ連仲介による和平交渉を推進することが決まった。一方、連合軍側は7月26日に、米・英・中国の3国による、日本に降伏を勧告する「ポツダム宣言」を発表した。これに対し、日本側はこれを黙殺し、対ソ交渉のなりゆきに期待をいだいていた。8月6日、広島に原子爆弾が投下され、8日にはソ連が、日ソ中立条約を破って、対日宣戦布告を行い、満州・北朝鮮・樺太に侵攻を開始した。その翌日の9日には長崎にも原爆が投下された。このような事態に際し、10日の御前会議によりポツダム宣言受諾が決まり、国体護持の条件のみをつけた条件付受諾が連合軍側に伝えられた。12日にバーンズ米国務長官名による連合軍側の回答が到着し、14日の御前会議で終戦が決定され、終戦詔書が発布された。15日正午にラジオ放送を通じて、天皇が国民に終戦の事実を伝えた。こうして、4年にわたる太平洋戦争は、日本の無条件降伏により終結し、降伏文書調印式は9月2日にミズーリ艦上において行われた。

【戦争の被害】敗戦により日本は、領土の45%と海外の勢力圏のすべてを失った。人の損害は、日中戦争を含めて軍人・軍属・一般市民を合わせ、約260万人にのぼった。物の損害は、1945年8月15日の価格で、一般国富が653億円、軍事的国富が404億円、合わせて1,057億円であった。

〔参考文献〕防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書』朝霞新聞社

服部貞四郎『大東亜戦争全史』原書房

日本国際政治学会編『太平洋戦争への道』朝日新聞社

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