●太平洋諸島信託統治領 たいへいようしょとうしんたくとうちりょう
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【信託統治制度】第二次世界大戦中の1941年8月に発表された大西洋憲章において,イギリス・アメリカ両国は,領土不拡大の原則を明示し,この原則は1943年11月のカイロ宣言においても確認された。1945年2月のヤルタ会議において,領土不拡大の立場から,従来の委任統治地域および第二次世界大戦の戦敗国より分離される地域などの統治を行うための信託統治制度を新たに設けることが決定された。同年のサンフランシスコ会議において,この構想が承認され,国連憲章第12章,13章に規定された。そして,この規定にもとづき,11の地域が信託統治領となった。【信託統治協定】日本の委任統治領であったミクロネシアについては,アメリカの軍部は,大戦中多大な犠牲をはらって確保した地域であり,また,アメリカの安全保障にとっても戦略的に重要な地域であるとして,信託統治制度のもとに置くことには強く反対した。そのため,軍部の要求を満足させるための妥協的方法として,信託統治領としてはミクロネシアだけに,国連憲章第82条の〈戦略地区〉の規定を適用し,国連の任務は,総会の代わりに安全保障理事会が行う,とした。そして,国連憲章第77条にもとづく「太平洋諸島信託統治協定」が,1947年4月2日に安全保障理事会で承認され,同年7月18日にアメリカ両院合同決議により受諾され,同日より効力が発生した。
【アメリカの統治】ミクロネシアに対するアメリカ統治を区切ってみると,自治政府の発足時まで,5期に分けることができる。第1期 アメリカ軍による軍事占領時から,1947年の信託統治協定締結時まで。この期間は海軍による軍政が行われた。第2期 1951年6月30日まで。信託統治領となったのちも,海軍による暫定統治が行われた。第3期 1965年のミクロネシア議会設立時まで。1951年7月1日から,統治機関が海軍から内務省に代わった。しかし,サイパン・テニアンなどは,1961年まで海軍によって統治された。ミクロネシア全域を内務省が統一的に統治することになるのに伴って,信託統治領行政府がサイパンに設置され,アメリカ大統領によって任命される高等弁務官が,現地の最高責任者として統治の任にあたった。また,ミクロネシアは,マリアナ・マーシャル・ポナペ・パラオ・トラック・ヤップの6地区に分けられ,各地区に地区行政官が置かれた。第4期 ミクロネシアの分裂時まで。1960年代の国連の非植民地化運動を背景とした,ミクロネシア住民の自治権拡大の要求にこたえ,1965年にミクロネシア議会が開設された。立法機関の機能としては制限されたものではあったが,ミクロネシア各地区の住民から直接選ばれた議員をとおして,ミクロネシア人の声を直接反映させることができるようになった。しかし,信託統治終了後の,ミクロネシアの将来の政治的地位をめぐる交渉において,各地区の利害の対立が深刻になり,1976年マリアナ地区が分離して,北マリアナとなった。一方,従来ポナペ地区に属していたクサイ島が,1977年1月にコスラエという名称で新しい地区になったので,北マリアナ以外のミクロネシアは再び6地区となった。その後,1978年にマーシャルとパラオが分離した結果,ミクロネシアは四つの政治的単位,すなわち北マリアナ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦(コスラエ・ポナペ・トラック・ヤップ)・パラオに分裂してしまった。第5期 自治政府の発足時まで。分裂以来,それぞれの地域で自治政府の樹立に向けて憲法制定などの準備を進めた。自治政府の発足時は,次のとおりである。北マリアナ諸島,1978年1月9日。マーシャル諸島共和国,1979年5月1日。ミクロネシア連邦,1979年5月10日。パラオ共和国,1981年1月1日。
【信託統治終了後の政治的地位】北マリアナ諸島のみは,自治政府発足後は,アメリカのコモンウェルスとして,事実上アメリカ領としての扱いを受けているが,信託統治終了後は正式にアメリカ領となり,住民はアメリカ市民権をもつことになる。これ以外のミクロネシア3自治政府は,アメリカとのあいだで自由連合協定を締結し,信託統治終了後はアメリカの自由連合国となる。自由連合関係においては,アメリカがこれらの国の防衛と安全保障の義務を負うほかは,外交を含めほぼ独立国に準じた国家活動ができることになる。