●太平洋航路 たいへいようこうろ
AD
航路を,船舶が往来のために反復して使う海路としてみるならば,太平洋の航路が開拓されたのは,ヨーロッパ人が進出し始めてからである。当初にあっては,探検航海の試行錯誤を重ねざるをえなかった。【東西からの航路開拓】ポルトガル人がインドのゴアをへて,太平洋海域の入口ともいえるマラッカに達したのは1511年である。ついで香料諸島(モルッカ諸島,現マルク諸島)との独占的交易を手中にした。これに東側から接触を試みたのがマゼランである。マゼラン海峡を初めて通過したマゼランは,まず北西に向かって針路をとり,南回帰線を過ぎてから西方に向け,グアム島に達した(1520〜21)。マゼランの非業の死のあとフィリピンに基地を据えたスペイン人は,メキシコとの航路開拓をはかるが,北太平洋の大圏航路をとって成功するのは約35年後,ウルダネタによってである(1565)。マニラとメキシコのアカプルコ(あるいはナヴィダード)間に配航されたガレオン船による貿易は,18世紀まで約250年間にわたり保持された。この太平洋横断航路は,長らく他国には秘されていた。ガレオン船の交易品を狙って太平洋に入ったイギリス人のドレイク(1578〜79)・キャヴェンディシュ(1587)は,アメリカ大陸からアジアに向けて横断するが,いずれも北半球の貿易風帯を利用して,ガレオン船とほぼ同じ航路をたどった。このあとクック・フランス人のラ=ペルーズ・アメリカ人のウィルクスなどが,太平洋に東西あるいは南北と航跡をつづるが,なかでもクックはアメリカ大陸の北部で,太平洋から大西洋に抜ける航路の発見を一つの使命としていた。イギリスが16世紀後半から求めつづけてきた大西洋から太平洋に通じる“北西航路”を,逆方向から探ろうとしたものだが,これは失敗に終わった。一方,香料諸島をへたポルトガル人は中国との接近を試みたが,当時の明(みん)は海禁政策をとっていたため難航した。1537年マカオに根拠地を置き,1543年には日本の種子島に達した。島原の乱が鎮圧された翌年,徳川幕府は最終的な鎖国令を発し,ポルトガル船を含む南蛮船の来航を禁じ,オランダ船のみが独占的に交易を許された。1641年(宝永18)オランダ人は平戸から長崎に移され,以後200年間“出島貿易”がつづいた。
【アメリカとアジアの接近】日本が1639年(寛永16)以降,鎖国に入っているなかで,1788年イギリス本国から囚人を主力とするオーストラリアへの植民が開始され,つぎつぎに船隊が到着するようになる。これとほぼ同時期,南アメリカを迂回したアメリカ船が北太平洋のバンクーバーに現れ,毛皮の交易を始めた。そのうちの1隻コロンビア号(グレイ船長)は,太平洋を西に向かい,アメリカ船として初めてハワイに寄り,毛皮を広東(現広州)で売り,喜望峰を回って1790年ボストンに帰った。アメリカ船最初の世界一周であった。また僚船のレディ=ワシントン号(ケンドック船長)は,太平洋を横断すること5回にわたった。そのあいだ,ハワイのカウアイ島で紫檀を発見して,のちに中国貿易の重要商品となった。中国との西周り航路開拓によって巨利を得たアメリカ人が続出した。
【客船定期航路の開設】1848年カリフォルニアで金鉱が発見されると,アメリカ太平洋岸への“ゴールド=ラッシュ”がおきた。その前年,パナマからサンフランシスコ−オレゴンの定期航路を買収して設立されたパシフィック=メール=スチームシップ社は,移民および貨物の移動で急激な膨張をとげた。かたわらパナマ中継航路を利用すると大西洋岸都市からの所要日数が1カ月内外であるのに対して,南アメリカ南端の迂回航路は3カ月以上を要していた。これがクリッパー=シップの開発により,航海日数を縮めつつあり,1851年フライング=クラウド号はニューヨーク−サンフランシスコを89日8時間で走破した。ついでコメット号は1856年,76日7時間の新記録をつくった。金鉱発見の前年,サンフランシスコに入った大西洋岸の船はわずかに4隻であったが,発見後は775隻に達した。ところが,往航には貨客満載であったクリッパーも,復航には貨客とも少なかったから,中国をへてアフリカ経由で帰航するものが多くなった。中国へ寄れば茶と絹が集荷できた。1850年オリエンタル号は広東-ロンドンを97日間で結び,イギリス海運界に衝撃を与えた。しかし,15年ほどで対抗できる帆船をつくりだし,イギリス船はアメリカ船を撤退させた。1861〜65年のアメリカ南北戦争ののち,アメリカ政府は海運建て直しのため海運補助法を制定した。これに適合した航路の一つが,サンフランシスコ−ハワイ−日本−中国航路である。運航業者は,アメリカ沿岸航路業者であったパシフィック=メール=スチームシップ社で,名前どおりの太平洋に進出したのであった。東洋航路受命遂行のため発注した第1船が,木造外輪船のグレート=リパブリック号で,1867年(慶応3)に就航した。さらに1872年(明治5)には新造船を配して,サンフランシスコ−横浜を従来の22日間から16日間に短縮した。この太平洋の覇者であるパシフィック=メールの支線で挑戦したのが,郵便汽船三菱会社で,1875年(明治8)日本で初めての外国定期航路として横浜−上海航路を開設した。両社により運賃値下げ競争が展開されたが,翌1876年(明治9)三菱は政府の貸下金を得て,同航路権のほか使用汽船・倉庫などいっさいを買収してパシフィック=メールを撤退させた。一方,西から航路を延長してきたイギリスのペニンシ
ラ=アンド=オリエント=スチーム=ナヴィゲーション社(略してP.O., 片島東洋汽船会社とも訳し,「彼阿」とも略称した)は,1876年(明治9)香港から横浜に航路を延長してきたが,三菱はこれとも対抗し,半年間で後退させた。パシフィック=メールは,1892年(明治25)郵便助成法によりサンフランシスコ−香港航路を受託運航するが,1894年(明治27)には返上した。第一次世界大戦中の1915年(大正4)アメリカは新しい船員法を制定したが,同社は影響をこうむるとして,太平洋の運航から手を引くことになった。
【日本船の太平洋航路進出】日本船の太平洋横断定期航路の開設は,19世紀も末ごろになってからである。1896年(明治29)航海奨励法・造船奨励法・特定航路助成法の3法案が公布されると,日本郵船(1885年,三菱会社と共同運輸が合併)はただちに欧州航路を開設したのにつづき,同年8月北アメリカ=シアトル航路を開設した。また同年設立された東洋汽船は1898年(明治31)北アメリカ=サンフランシスコ線を開設した。このころ,遠洋航路では日本人乗組員より外国人乗組員のほうが多かったが,航海奨励法が日本人乗組員を規定したため,1898年以降は日本人船長が外国人船長を凌駕するようになった。第一次世界大戦のヨーロッパ戦線の激化と,パシフィック=メールの太平洋撤退は,太平洋上における日本・イギリス・アメリカの3国海運勢力比を変化させた。日本は26%から51%へ,イギリスは29%から37%へ,アメリカは26%からわずか2%へ激減した(1914)。日本船は太平洋岸の都市を起点とする鉄道会社と結び,大西洋岸へ貨物を送っていたが,パナマ運河が1914年(大正3)開通したことは,太平洋航路に変革を与えることになり,日本郵船は1916年(大正5),大阪商船は1918年(大正7)ニューヨーク航路をそれぞれ開設した。さきの東洋汽船は,1926年(大正15)日本郵船の翼下に入ったが,旅客船としての実績は引き継がれ,太平洋の旅客輸送は日本郵船・ダラー汽船(パシフィック=メールの実績を継ぐ)・カナディアン=パシフィック(1891年に定期サービスを開始)の3社が対立する時代が10年余あった。
【太平洋戦争後の太平洋航路】戦前,太平洋航路の雄となった日本は太平洋戦争で壊滅的打撃を受け,さらに100t以上の船舶は1952年(昭和27)まで連合軍の管理下に置かれた。1950年にはパナマ運河通航が許可となり,翌1951年にはニューヨーク定期航路が開設されたが,いまだにアメリカの就航船腹量をしのぐにいたっていない。1958年(昭和33)マトソン=ナヴィゲーション社は,北アメリカ―ハワイにコンテナ船を就航させ,ついで1967年(昭和42)には日本−北アメリカにコンテナ船の第1船を配船した。日本では“第2の黒船”と騒がれた。翌1968年にはシーランド社も第1船を配航,日本からも初のフルコンテナ船として日本郵船が就航した。木材・パルプ・鉱石・自動車などの各専用船が効率的に運航され始めるにつれ,在来航路を走る定期船はすっかり様相を変えた。
〔参考文献〕黒田英雄『世界海運史』1979,成山堂
増田義郎『大航海時代』世界の歴史13,1934,講談社