●太平天国 だいへいてんごく
アジア 中華人民共和国 AD1851 清
中国の清朝末期,上帝会の指導者洪秀全が清朝に反対して樹立し,南京を都として,華中・華南にわたって,1851年(道光30)から1864年(同治3)まで存続した国。国号には「太平天国」「真命太平天国」「天父天兄天王太平天国」がある。【成立】広東の中農の出身である洪秀全は,応試に失敗し,病床で夢を見,上帝ヤハウェから破邪の剣を与えられたと確信し,1847年ヤハウェを拝する上帝会を創始した。この運動の組織にあたったのは,村塾教師の馮雲山と族弟のコウジンカン※注1※であった。上帝会の参加者は,炭焼き出身の楊秀清・貧農の蕭朝貴・客家出身の地主韋昌輝・石達開などを中心としており,その出身階層は,炭焼き・貧農・鉱山労働者・客家などであった。1850年7月,上帝会員は金田村に集結して,団営を結成した。団営とは共産的軍事組織で,男子は男営に女子は女営に入営した。太平天国は,1851年1月決秀全の指導のもとに金田村で挙兵することによって開始された。なお,太平天国の太平とは,大同思想からとられたものであり,天国とは聖書からとられたことばである。
【発展】太平天国の樹立とともに,洪秀全は天王となり,楊秀清・蕭朝貴・馮雲山・韋昌輝・石達開は,それぞれ正副軍師・五軍主将に任命され,永安州占領後,5人ともそれぞれ東王・西王・南王・北主・翼王に任ぜられた。1851年から1852年にかけて,永安を拠点として半年間過ごし,その間に軍制・官制・暦法を制定した。1852年には,清軍の包囲を破って北進が開始された。このとき,天徳王洪大全が清軍に捕えられた。それから桂林・興安・全州に転戦したが,全州で馮雲山が戦死した。ついで湖南に入って道州を占領し,「奉天討胡」を出したところ,会党で応ずる者が数万あった。さらに,長沙を包囲したが占領できず蕭朝貴を失い,岳州・漢陽・武昌を取って揚子江に出,九江・安慶を占領し,1853年3月南京を占領し,天京と改め首都とした。一方,李開芳・羅大綱などは,鎮江・揚州を占領した。1853年から1855年にかけては,北伐と西征が行われたが,北伐からみていく。李開芳・林鳳祥・吉文元の北伐病は,揚州を出て安徽・河南・山西をへて静海・独流を取り,北京に迫ったが,寒さと飢えのために後退・敗北し,黄生戈らの援軍も1855年に全滅した。西征軍は,安慶・南昌・廬州・武昌・岳州・田家鎮などで攻防戦を展開したが,このとき参加したのは,胡以晃・章志俊・石達開らの軍であった。またこのとき,曽国藩は湘勇を組織し,武昌・鎮江などを奪還した。このころ,天王は宮中でずっと生活しており,東王陽秀清が軍政の実権を掌握していたが,北王韋昌輝はそれを妬んで東王一族を惨殺した。そこで天王は北王を殺害し,翼王右達開に輔政させたが,だんだん一族の洪仁達・洪仁発を重用するようになった。なお,このころ活躍した指導者は,カンオウコウジンカン※注1※・忠王考忠成・英王陵玉成などであった。
【敗北】敗北の原因は,第一に,弱化した清朝の正規軍の八枚軍,緑営に変わった郷勇の反撃である。すなわち,曽国藩の湘勇と李鴻章の准勇が太平天国鎮圧のために活躍した。第二は,ウォードの創設した常勝軍のゴードンによる西欧近代兵器の太平天国攻撃があり,太平天国は大きな打撃を与えられた。第三には,すでに述べたように指導者の内乱があった。これらのなかで,天王洪秀全は病死し,忠王李秀成・幼王洪天貴福・翼王石達開らが清軍に捕えられ,結局太平天国は敗北した。
【社会組織と制度】太平天国の社会組織と制度は,周官が理想とされた。それらについて土地制度・兵制・官制の順にみていく。土地制度については,天朝田畝制度が書かれた。それを箇条書きにすれば,第一に,田を9等分して,16歳以上の男女に均等に土地を給付する。第二に,人口を伍(5人)・両(5伍)などの単位に分け,それぞれに責任者を置き,兵農一致の軍事組織をつくる。第三に,25家ごとに国庫・礼拝堂を建てる。第四に,官吏は両司馬以上の推挙によって昇進する。第五に,司法面では25家の訴えをまず両司馬が聞き,しだいに上告して最終段階で天王が裁断する。以上がその骨子であり,『周礼』の大同の理想にもとづいたものである。しかし,徴税のため査団をし田冊をつくり,軍事のため住民を編成して戸冊をつくるなどの従来の方法もとられた。兵制は,太平軍目に定められており,兵農一致の軍事組織であり,男館と女館に分かれていた。また女軍や童子軍もあった。官制には,朝内官・軍中官・守上郷官の別があった。朝内官には,王・侯国宗・丞相・検点・指揮・将軍などがあり,軍中官には,総制・監軍・軍帥・師帥・旅帥・年長・両司馬があった。守上郷官には,守士官と郷官があり,いずれも地方官であるが,前者には老兄弟をあて,おもに郡・州県に関係させ,後者には郷村の支配層をあてた。女官も期内宮と軍中官が置かれた。その他各種の典官が置かれ,商・工・医・警察などを管理した。また官制に応じて,礼制も太平礼制として定められた。考試制度は,永安で開かれたが,コウジンカン※注1※により整備され,京試・省試・郷試が定められ,京試・省試が3年に1科,郷試は毎年2月とされたが,実際に行われたのは,郷試だけであった。
【宗教】太平天国の宗教は,洪秀全が応試の際,中国人伝道者梁阿発からキリスト教のパンフレット「勧世良言」を与えられ,それと彼の病床での幻想が一致したときに,上帝教として始まった。太平天国建国以後,これが普及していくことになる。太平天国の宗教を教理と儀式の面からみるならば,教理としては,上帝であるヤハウェの神,基督としてのイエス,聖神風としての聖霊が説かれており,これが三位一体論となる。また,洪秀全を天王としてキリストの弟に位置づけ,さらにヤハウェの妻である天母,キリストの妻である天嫂なども考えられている。またすべての人は,上帝を父とする兄弟姉妹であるとした。そして十天条と呼ばれる十戒を守り,偶像礼拝に反対し,よいことをすれば,天堂(天国)に登れ,悪いことをすれば,地獄に落ちるとした。経典としては,旧新約聖書のほかに上帝の言を伝えた『天命詔旨書』『天父下凡詔書』がある。儀式としては礼拝があり,そのなかで講道理(説教)や犠牲奉献(献金),中国民間宗教にみられる焚火が行われ,ときに洗礼式も行われた。太平天国の宗教は,洪秀全が広東において学び得たキリスト教を中心としており,それを太平天国の革命運動の行動原理としたので,従来の農民反乱と異なり,倫理的禁欲的であり,多くの農民の支持を得ることとなった。しかし,それをオーソドックスなプロテスタント=キリスト教と比較すれば,優れて形式的に受容されている。つまり太平天国は,清朝打倒の原理に必要な面のみを中心に取り入れ,都合のよい解釈もなし,彼らの宗教を伝統的な中国の「天の思想」に付合させることになった。
【外交関係】西洋人,とくにプロテスタント宣教師たちは,最初太平天国がキリスト教の国であるとみなし,同情と期待をもっていた。たとえば,英国の香港総督で公使であったボナムは,1953年天京に行き,東王楊秀清と会い中立を約束しながらも既得権の承認を認めている。仏国公使ブルボンも米国公使マクレーンも中立の態度を明らかにしている。しかし,北京条約が締結され,清朝から有益な権益が与えられると,英仏は清朝と連合して太平天国を攻撃するようになった。これに対し,太平天国では,最初は尊大な態度もみられたが,おおむね自主的な民族主義外交の態度をとった。
【評価】清朝側では,粤匪・粤賦・髪匪・長髪賊・髪逆・長毛と呼び反逆者とみなした。しかし現在では,民族革命の先駆・社会革命運動・農民革命とみる見方と,商業資本の動きとみる見方がある。後代への影響としては,第1に孫文は太平天国を高く評価しており,第2に太平天国の運動は民間に英雄伝説として残っており,第3に,中国共産党の大長征に大きな影響を与えた。
〔参考文献〕増井経夫『太平天国』1951,岩波書店
(『中国の二つの悲劇−アヘン戦争と太平天国−』研文出版,1979年収録)
牟安世,依田熹家訳『太平天国』1972,新人物往来社
小島晋治『太平天国革命の歴史と思想』1978,研文出版
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