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●対仏大同盟 たいふつだいどうめい

ヨーロッパ フランス共和国 AD 

 フランス革命期からナポレオン時代にかけて,ヨーロッパ諸国がフランスに対抗するために結成した同盟。各国の対仏関係や戦争の結果によってたびたび中断し,7回にわたって結成された。

【第1回】すでにヴァレンヌ逃亡事件(1791年6月)以後のピルニッツ宣言において,オーストリアとプロイセンは共同して革命勢力に対処することを表明し,さらに1792年2月には,両国のあいだに防御同盟が形成されていたが,ヴァルミーの戦い(1792年9月)以後の革命軍の善戦とルイ16世の処刑(1793年1月)は,ヨーロッパ各国政府の態度を硬化させ,各国の同盟への加盟を促した。1793年夏までに,フランス軍のベルギー占領によって自国の利害を脅かされたイギリスをはじめ,ロシア・スペイン・サルディーニアなどが相次いで同盟に加わり,第1回対仏大同盟が成立した。同盟は1795年まで存続したが,この間の第2回ポーランド分割によるロシア−オーストリア−プロイセン間の利害の対立や徴兵制度の採用により士気のあがったフランス軍のオランダやラインラントの占領のため,バーゼル和議(1795年4月〜7月)によってプロイセンとスペインが脱落。ついで,ナポレオンのイタリア遠征によりサルディーニアが降服,さらにマントヴァ陥落の後,オーストリアがフランスとカンポ=フォルミオ条約(1797年10月)を結んだため,同盟は解体した。

【第2回】ナポレオンのエジプト遠征失敗後,総裁政府の拡張政策に対抗してイギリス首相ピットがロシア・オーストリア・ポルトガルおよび両シチリア王国を誘って結成(1798年3月)。ただしプロイセンは不参加。当初,同盟軍は優勢だったが,チューリヒの敗戦によりロシアが脱落。ついで,マレンゴの戦いでオーストリア軍が敗れたのちのフランス・オーストリア間のリュネヴィル条約(1801年2月),さらにフランス−イギリス間のアシアンの和議(1802年3月)により同盟は解消した。

【第3回】アシアン和議による平和が破れた後,再度首相となったピットの主導のもとにイギリス−オーストリア−プロイセン間に成立(1805年8月)。しかし,アウステルリッツの戦いにおけるナポレオンの戦勝後,オーストリア・フランス間のプレスブルクの和議(1805年12月)により崩壊。

【第4回】ナポレオンによるライン同盟形成を機に,プロイセン−ロシア−イギリス−スウェーデン間に成立(1806年9月)。イエナの戦いでプロイセンが,フリートラントの戦いでロシアが敗れた結果,フランスと両国とのあいだにテルジット条約(1805年12月)が結ばれ,崩壊。

【第5回】オーストリアのフランスとの開戦を機に,オーストリア−イギリス間に締結(1809年4月)。しかし,オーストリアがワグラムの戦いに敗れてシェーンブルン和議(1809年10月)でナポレオンと和したので解体。

【第6回】1812年のナポレオンのモスクワ遠征失敗の後,ナポレオン打倒の気運が全ヨーロッパに高まったのを機に,1813年3月,ロシア・プロイセン・オーストリア・イギリスを中心に同盟が結ばれ,これら4国の主導下,デンマルク・ザクセンおよびライン同盟を構成する数カ国を除く全ヨーロッパの国々が加盟。同盟軍はライプチッヒの戦いの勝利(1813年10月)ののちにフランスに侵入し,ナポレオンを退位させた。

【第7回】ナポレオンのエルバ島からのパリ帰還に対抗してウィーンに同盟が再編され(1815年3月),ワーテルローの戦いでナポレオンに決定的勝利をおさめ,ナポレオンを再度退位させた。